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女優・二階堂ふみが沖縄の平和学習、ナチスのプロパガンダ映画を通じて考えた「戦争を伝えること」とは?

 平和な時代であれば、恋やおしゃれを楽しめたはずの大切な時期を、戦争によって奪われた悲しみ。そんな素朴な感情をありのままに、等身大で描いた茨木の詩で二階堂は初めて、いったん戦争が始まれば全国民が巻き添えになり、色々なものが奪われてしまうということを実感できたのだ。

 そんな経験をしているからこそ、二階堂は映画のなかで、銃後の東京を生きた女性の等身大の姿を演じることに苦心した。

〈この映画では、人が殺されたり、誰かが亡くなったりする場面は描かれていません。勝った負けたもなければ、敵も味方もない。女性として一番きれいな時期を奪われる里子の気持ちを丁寧に描くことで、戦争がもたらした大きな悲劇が伝わればいいと思っています〉(「文藝春秋」文藝春秋/15年8月号)

 そう語る二階堂だが、しかし、彼女は「エンターテインメント」の領域で「戦争」を扱うことも危険性も十分に理解している。「映画」という人の気持ちを惹きつける強力なフォーマットが良くない人間の手に渡ったとき、恐ろしい効果を発揮する。二階堂はナチスのプロパガンダ映画であるレニ・リーフェンシュタール監督『意志の勝利』を観て、それを感じた。この作品は、ナチスの第6回全国党大会の様子を記録した1934年制作の記録映画だが、一方で映画史としては撮影・編集において効果的かつ独創的な演出手法を使い、高揚感や臨場感を表現した作品としても知られている。

〈中学生の時にヒトラーの『我が闘争』を読んで、なんと恐ろしい、と思ったんです。言っていることは間違いだらけなのに、実際にその時代を狂わせてしまったわけですから。それには彼が持つカリスマ性をはじめ、様々な理由があります。私は「戦争が悪い」と一言で片付けるのが嫌いなんです。もちろん、戦争はあってはいけない。でも、なぜ戦争が起こってしまったのか、その時代を生きていた人々がどういう目で戦争を見つめていたのかを考えずに、「悪い」で済ませてはいけないはずです。小さなおにぎりしか配給されなかったのに、なぜ戦い続けたのか、耳を傾けたいんです。おそらく、戦うしかなかったんだ、と思います。
『意志の勝利』については、映画として素晴らしいものができてしまった、それって、とても悲しいことですよね。あの作品を作ってしまった人は、その後、作品を作った呪縛から逃れられなかったわけですから。(中略)ドキュメンタリーだって嘘はつけるんです。そこに映っている被写体の目がまっすぐだと感じ、それを信じ込んだ人が大勢いた。ならば疑問に思うじゃないですか。どうして真に受けたのか、って〉(「文學界」文藝春秋/15年9月号)

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