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宮崎駿の引退を「傲慢」とバッサリ! 毒舌冴える押井守監督だが、性差別への無理解も

 押井は、以下のようにも続ける。

〈セクハラ発言を許しておいて、後になってそれを政治問題化するのでは時機に失するというものです。政治はタイミングが重要なのですから、敵失は見逃さずに速攻で応酬すべきです〉

 ……その場で応酬できなかったことが、いったいなぜ相手方を「許した」ことになるのだろう? 塩村がなぜ野次に言い返せなかったのかという地点から考えてみたい。ヘイトスピーチ(差別煽動表現)をめぐる議論のなかで知られた言葉に「沈黙効果」がある。もとは批判的人種理論という学問分野から生まれた専門用語で、差別的な効果をもつ言葉を投げられたとき、被害者は「顔面に平手打ちをくらうような」衝撃を受け、一瞬にして沈黙を強いられるというものだ。「レイシストをしばき隊」(現・C.R.A.C.)主宰者の野間易通は、次のように言う。

〈マイノリティの出自や性的指向、あるいは障害などを、それらの属性を持たない者に攻撃されて、有効な対抗言論を繰り出すことは原理的に不可能だ。彼らを諌めたり諭したりすることはできるだろうが、それは本来被害者が担うべき役割ではないだろう〉(野間易通『「在日特権」の虚構 増補版 ネット空間が生み出したヘイト・スピーチ』河出書房新社)

 性別という属性への攻撃となるセクハラ発言を行った人物を「諌めたり諭したり」するのが被害者の役割ではないということもまた然り。ここから考えれば、塩村の強張った表情も典型的な「沈黙効果」の一種と言えそうだ。

 総じて、押井の「不正規発言には不正規発言を」「セクハラ発言を許しておいて」という指摘はトンチンカンとしか言いようがなく、セクハラを受けた側をまったく誤ったかたちで貶めるものなのだ。

 本書の冒頭では「僕が人格者なんぞであるわけがありません」と宣言した直後に、「まあ女性と動物には、ごく優しい男なのですが」という但し書きが入っている。先手をわざわざ打つのは自分自身が抗議対象になりえる自覚があるからではないか? という予感を抱いてはいたのだが、やはりそうだったとは……。日本を代表するアニメ監督の「怒り・正義・欲望」は、セクシズムへの無理解と背中合わせで成り立っていることがよくわかる一冊であった。
(明松 結)

最終更新:2018.10.18 04:23

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