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中川政務官以外にも路チュー目撃多数! 国会議員同士のキモすぎる恋愛事件簿

 園田はすっかり白状すると、5人も子供がいると知れば君は自分のところに来なかっただろうと開き直ってしまった。これに松谷は《もう園田を責めてもしかたがない。自分がしでかしたことなのだから、自分で責任を取るよりしょうがない。決して引き返すまい。自分に負けるものか》と覚悟を決める(園田天光光『生きがい上手』たちばな出版)。不倫の末の結婚だっただけにマスコミや世間ではスキャンダラスに騒がれ、すでに松谷が妊娠していたこともあり、園田より彼女のほうが強く批判された。同じ女性議員の市川房枝や作家・平林たい子も「無節操だ」と攻撃し、社会党の堤ツルヨは松谷の妊娠を「厳粛なる事実」と言って流行語となった。

 松谷の父も結婚を認めておらず、彼女は戸籍上はまだ松谷家の人間だった。それが転機を迎えるのは、彼女が政治活動のための金策と育児、それに園田の性懲りもない女性問題に憔悴して実家に戻ったときだった。別居は長引き、園田の親分格だった衆院議員の河野一郎など政財界の大物たちが心配して松谷家を訪ね、父親に対し彼女に帰るよう言ってくれと説得する。これを受けて父は松谷に、自分が後悔しないで済む道をとりなさいと告げた。色々と考えた末に、彼女は夫のもとに帰ることに決める。すると父は初めて戸籍謄本を渡し、園田の籍に入ることを認めてくれたのだった。

 これと前後して松谷は52年・53年・55年・58年と立て続けに総選挙で落選していた。半年ぶりに帰宅した彼女は夫を支えることに徹しようと決意し、「松谷天光光」の名刺を全部捨てたという。園田は所属政党の離合集散にともない複数の党を渡り歩き、最終的に自民党に合流する。67年には第2次佐藤栄作内閣の厚生大臣となり、水俣病とイタイイタイ病を公害病に認定した。78年には福田赳夫内閣の外相として日中平和友好条約交渉を妥結している。

 この間、選挙中は、全国を応援に飛びまわる夫に代わって天光光が地元・熊本での選挙運動を取り仕切った。その手腕を買って、園田が亡くなって2年後、86年の総選挙では一部の支援者らは当然のように彼女を後継者に担ぎ出した。一方で園田の前妻の息子である博之を担ぐグループもあったため、天光光はもともとの選挙区である東京に戻ることも考えたが、熊本の支援者らはそれを許してくれなかった。結局、義理の親子が同じ選挙区で争い、トップ当選した博之に対し天光光は落選する。このあと彼女が議員となることはなかったが、政治とはさまざまな団体の役員を務めながらかかわり続けた。エッセイや歌集など著書も多く、晩年にはその波瀾の人生があらためて注目されながら、今年1月29日、96歳で亡くなった。

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