ひとつは沖縄での経験。昭和40年代はじめ、まだ沖縄が米軍統治の時代にみのは仕事で沖縄を訪れている。寝泊まりはとある民家で、夜間外出は危険だったためその家のおばあさんの手料理をつまみに泡盛を飲んだ。
家庭的歓待を受けたみのは再び沖縄を訪れ、民家を訪ねた。そして前回から気になっていた主人の首の傷跡について思い切って質問してみたという。
口を濁した主人だが、それでも小学生時代の戦争体験を語りだした。主人が武器や弾薬を運ぶ手伝いをしていたため、日本兵と北部の山に逃げたときのことだ。
「敵が迫ってきたら、兵隊さんに『足手まといだから死ね』と言われた」
しかし子どもの主人には自決の方法がわからない。
「それで木に絡まっていた蔦を首に巻いた。ロープの代わりにして、首吊りをしようとしたんだけど蔦だからうまく結わえなくて。だから擦れて火傷になった。だけどぼくは死ねなかった…」
この主人との交流がきっかけでみのは毎年のように“摩文仁の丘”を訪れることとなる。辺野古にも足を運んだ。そのたびに、みのは沖縄、そして平和への思いを新たにしていたという。
そして、みのに戦争反対の意志を強くさせたもうひとつの理由が母親の言葉だった。昭和19年7月、みのが生まれる1カ月前に3歳だった兄が亡くなった。その通夜の席に父親への召集令状が届いたのだ。母親はこの出来事を後にみのに繰り返し語ったという。
「『はじめて授かった長男が3つで死んで、そのお通夜の席に夫の召集令状が届いた。ふつうに考えれば気の毒なことでしょう? なのにみんなが万歳した』(略)それから僕をお腹に抱えた身重の母は、途方に暮れ、ただ国を呪ったといいます」
その後、父親は戦地から無事に戻ったが、母親の戦争に対する怒りは終生変わらなかった。そしてみのはその思いを受け継いだという。
「戦争への嫌悪も人一倍かもしれません。もしかすると、僕は母の胎内にいたあの兄の亡くなった夜、すでにそれを受け継いでいたかもしれません」