文章のうまさ、読みやすさが、必ずしも文学的価値と比例するわけではない。石原慎太郎は悪文ではあるが、それが石原の小説に“異常な効果”をもたらす美点でもある、というのが三島の石原評だ。(そして、今日も石原文学を評価する数少ない評論家も同じような意見だろう)
しかし、石原自身にはおそらく悪文の自覚はないと思われる。石原が自分の日本語力を棚に上げて他人の日本語の細かい表現をあげつらうのは、憲法前文だけではない。芥川賞の選考委員をしていたときも、候補作について「日本語がなってない」などとしょっちゅう批判し、豊崎由美、大森望のメッタ斬りコンビから「お前が言うな!」と突っ込まれていた。
ふつうは使わない表現でも、一見まちがって見える日本語でも、その表現でしか伝えられないものがあったり、それが作品の個性になったりする。そういう繊細さを慎太郎はわかっていない。だから「とりあえず助詞の一字だけでも変えたい」というようなことが言えるのだ。
たった一文字でも変われば、意味が変わることもある。たとえば9条の「国の交戦権は、これを認めない。」を「これを認める。」に変えても、文字数にすればたった二文字だが、まったく逆の意味だ。それを「とりあえず一文字だけでもいいから」とは、およそ文学者の言葉とは思えない。
そして「中学時代に丸暗記させられたが、すっと入らなかったことを思い出した」などと自分の記憶力と文学的教養のなさを、憲法のせいにする安倍首相。
こんな人たちに、一文字たりとも憲法改正などされたくないものである。
(酒井まど)
最終更新:2014.12.17 01:20