〈それに拍車をかけたのが、学生ながらの弟の放蕩だった〉
「学生ながらの」。言いたいことはわかるが、「ながら」の後はふつう「の」でなく「に」ではないだろうか。
『弟』が、国会議員を辞職し25年ぶりに書き下ろした長編だったから、筆が衰えていたというわけではない。慎太郎はデビュー当時から、その悪文ぶりを、ほうぼうから指摘されているのだ。
たとえば初期の短編「奪われぬもの」にはこんな表現がある。
〈少なくとも試合の中の行為に彼はいかなる些細な意味合いも持たしたことがあっただろうか〉
〈そして行為が結果と言う形でいかなる意味を持つかは、果して彼自身にも本当に理解できるところではない〉
一読しただけでは、意味が“すっと入ってこない”のではないだろうか。当時東京新聞の匿名コラム「大波小波」は、この石原の文章について「変な言葉遣い」とし「一体に近ごろの若い作家の文章を見ると、係り結びが崩れてきているようだ」と批判している。
三島由紀夫も慎太郎の悪文をたびたび指摘しているひとりだ。石原の最初の純文学長編「亀裂」について当時の「新潮」でこんなことを書いている。
〈女から離れると何か骨のシンから出て来たような口をすぼめる一人笑いで明は歩いた〉 という一文について、「『骨のシンから出て来たような口』とはいかなる口かと思い惑ふが、「骨のシンから出て来たような」は、実は「一人笑い」にかかるのである。句読点なしで出まかせに続けられるこんな無秩序な語序、品詞の破天荒な排列」──。
いかに慎太郎の文法がデタラメであるか、事細かに指摘しているのだ。しかし三島は決して慎太郎の文学そのものを批判しているわけではなく、この悪文ゆえにギリギリのところで通俗性から逃れていると褒めているのである。
三島は自身の文章論について書いた『文章読本』のなかでも、『源氏物語』や井原西鶴、横光利一の作品と並んで、慎太郎の「亀裂」を文章の見本として引用し、以下のように評している。
〈ここでは、日本語はいったん完全に解体されて、語順も文法もばらばらにされて、不思議なグロテスクな組み合わせによって、異常な効果を出しています。〉