ルソーはこう語っている。
〈イギリスの人民はみずからを自由だと考えているが、それは大きな思い違いである。自由なのは、議会の議員を選挙するあいだだけであり、議員の選挙が終われば人民はもはや奴隷であり、無にひとしいものになる。人民が自由であるこの短い期間に、自由がどのように行使されているかをみれば、[イギリスの人民が]自由を失うのも当然と思われてくるのである。〉(光文社古典新訳文庫版より、以下同じ)
わたしたちは、選挙という行為を通して、自由を失い、奴隷となるのだ。
なぜなら、主権とは代表されることはありえないものだからだ。〈だから人民の代議士は人民の代表ではないし、人民の代表になることはできない。代議士は人民の代理人にすぎないのである。代議士が最終的な決定を下すことはできないのだ。〉
であるのに、わたしたちはなぜに選挙によって「代表」を持とうとするのか。
〈市民たちの主要な仕事が公務ではなくなり、市民たちが自分の身体を使って奉仕するよりも、自分の財布から支払って奉仕することを好むようになるとともに、国家は滅亡に瀕しているのである。[兵士として]前線に出兵しなければならないというのなら、市民は[傭兵の]軍隊に金を払って、自分は家にとどまろうとする。会議に出席しなければならないというのなら、市民は代議士を任命して、自分は家にとどまろうとする。怠惰と金銭のおかげで、市民たちはついに兵隊を雇って祖国を奴隷状態に陥れ、代議士を雇って祖国を売り渡したのである。
商業や工芸に熱中し、貪欲に利益を求め、軟弱になり、安楽を愛する。こうして市民たちは身をもってなすべき奉仕を、金銭で代用しようとするのである。[みずから奉仕する代わりに]思いのままに利益を増やし、そしてその利益の一部を[公共の奉仕のために]支払うのだ。[奉仕する代わりに]金を払っているがよい、やがては鉄鎖につながれることになるだろう。…真に自由な国では、市民はすべてをみずからの手で行い、金銭で代用させはしない。〉
公共にかかわることはすべて他人まかせで、みずからの金儲けにしか関心がない。まるでいまのこの国を見通していたかのような表現である。そしてこう書き継いでいる。
〈わたしたちは自由よりも利益を重視する。そして奴隷になることよりも、貧しくなることを恐れているのだ。〉「わたしたちはみずからの自由を売って、奴隷の自由を買っているのである。その方がよいのだと自慢しても空しい。わたしはそこに人間の姿ではなく、卑屈さをみいだすからだ。」