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憲法前文の“てにをは”を攻撃した石原慎太郎の“てにをは”がヒドい!

 三島由紀夫も慎太郎の悪文をたびたび指摘しているひとりだ。石原の最初の純文学長編「亀裂」について当時の「新潮」でこんなことを書いている。

〈女から離れると何か骨のシンから出て来たような口をすぼめる一人笑いで明は歩いた〉
 という一文について、「『骨のシンから出て来たような口』とはいかなる口かと思い惑ふが、「骨のシンから出て来たような」は、実は「一人笑い」にかかるのである。句読点なしで出まかせに続けられるこんな無秩序な語序、品詞の破天荒な排列」──。

 いかに慎太郎の文法がデタラメであるか、事細かに指摘しているのだ。しかし三島は決して慎太郎の文学そのものを批判しているわけではなく、この悪文ゆえにギリギリのところで通俗性から逃れていると褒めているのである。

 三島は自身の文章論について書いた『文章読本』のなかでも、『源氏物語』や井原西鶴、横光利一の作品と並んで、慎太郎の「亀裂」を文章の見本として引用し、以下のように評している。

〈ここでは、日本語はいったん完全に解体されて、語順も文法もばらばらにされて、不思議なグロテスクな組み合わせによって、異常な効果を出しています。〉

 文章のうまさ、読みやすさが、必ずしも文学的価値と比例するわけではない。石原慎太郎は悪文ではあるが、それが石原の小説に“異常な効果”をもたらす美点でもある、というのが三島の石原評だ。(そして、今日も石原文学を評価する数少ない評論家も同じような意見だろう)

 しかし、石原自身にはおそらく悪文の自覚はないと思われる。石原が自分の日本語力を棚に上げて他人の日本語の細かい表現をあげつらうのは、憲法前文だけではない。芥川賞の選考委員をしていたときも、候補作について「日本語がなってない」などとしょっちゅう批判し、豊崎由美、大森望のメッタ斬りコンビから「お前が言うな!」と突っ込まれていた。

 ふつうは使わない表現でも、一見まちがって見える日本語でも、その表現でしか伝えられないものがあったり、それが作品の個性になったりする。そういう繊細さを慎太郎はわかっていない。だから「とりあえず助詞の一字だけでも変えたい」というようなことが言えるのだ。

 たった一文字でも変われば、意味が変わることもある。たとえば9条の「国の交戦権は、これを認めない。」を「これを認める。」に変えても、文字数にすればたった二文字だが、まったく逆の意味だ。それを「とりあえず一文字だけでもいいから」とは、およそ文学者の言葉とは思えない。

 そして「中学時代に丸暗記させられたが、すっと入らなかったことを思い出した」などと自分の記憶力と文学的教養のなさを、憲法のせいにする安倍首相。

 こんな人たちに、一文字たりとも憲法改正などされたくないものである。
(酒井まど)

最終更新:2015.01.19 04:41

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