「彼女にひとたび触れようものなら、気がふれてしまうのではないかという危機感を抱きつつも、僕の心はとても高揚していた。このファンクラブ限定イベント、IDカードに加え、顔写真付き身分証明書まで提示を求められるという、まさに選ばれし者たちの祭典というにふさわしいものであった。その無意味な選民意識が、僕の気持ちを一層高めていた」(同書より)
かなり屈折した感情に支配されている劔だが、いざ実際に松浦亜弥を目の前にすると、まるで身体が危険を察知しているかのように、猛烈な眠気に襲われたという。
そして、どうにか心を奮い立たせて、「ずっと応援しています!これからも頑張って下さい!」と声をかけた劔に、「ありがとうございます!応援して下さい!よろしくお願いします!」と、ニコッと笑って返答する松浦。
なんてことないやりとりだが、こんな些細な接触が、アイドルヲタにとっては本当に貴重な体験だったようだ。ある古参ヲタは当時の握手会についてこう話す。
「今ならアイドルとファンがフレンドリーに会話をすることも珍しくないのですが、当時は明らかな距離がありましたし、アイドルのほうもいわゆる“塩対応”が当たり前でしたね。いわゆるスタッフによる“剥がし”も厳しめで、ファンがファンとして扱われないことも普通でしたよ。当時アイドルは完全なるスターであって、決して“会いに行けなる”存在ではなかったわけですよ。なので、単純に触れるという体験こそが重要だったわけです」
劔が抱えていた葛藤や屈折した感情というものは、当時のハロヲタとしてはごくごく当たり前のものだったようだ。
といったように、アイドルヲタならではの、なんとも形容しがたい複雑な思いが描かれている『あの頃。』。なんだか当時のハロヲタの奇異な生態ばかりをピックアップしてしまった気もするが、それ以外にもハロヲタ仲間たちの人間臭くて切なく楽しい人生が愛情たっぷりに描かれている(むしろそっちがメイン)。そこに流れているのは『あまちゃん』いうところの、「ダサくても楽しいからやる!」精神だ。
初期ももクロの楽曲で知られるヒャダイン、でんぱ組.incのプロデューサー・もふくちゃん、HKT48で支配人を務める指原莉乃、AKBを中心としたアイドル論壇を支える音楽ライターたち……いまアイドル業界、音楽業界で活躍する人たちのなかには、劔と同じく「入り口はハロプロだった」という人は少なくない。劔自身も現在「神聖かまってちゃん」のほかに、「バンドじゃないもん!」という女子グループも手がけ、その先には、アイドルプロデュースも見据えているという。劔の動向は、ハロプロ以外のアイドルファンも目が離せないだろう。
(金子ひかる)
最終更新:2014.08.02 07:16