大林監督が語った敗戦時の記憶 母親から「この短刀で僕を殺して自分も死ぬ」と…
戦争によって人生を消耗させられたのは父だけではない。1938年生まれの大林監督も同様に戦争で人生を大きく狂わされた。もしかしたら、戦後すぐに彼は死んでいたかもしれなかったのだ。
九死に一生を得たのは、終戦後すぐ、尾道に進駐軍がやってくるという噂が立ったときのこと。ドキュメンタリーでは、その当時住んでいた大林監督の生家を訪れているのだが、寝室に使っていた部屋に入ると大林監督はこんな思い出を語り出した。
「いつもなら布団が敷いてあるんだけれども、それがなくて、ここに座布団があって、こっちに座布団があって、スーツをきちんと着た母親と僕が座って。なぜかここにこれぐらいの短刀が置いてありましたよ。なにか子ども心に、より切実に、夜が明けたらアメリカやイギリスの兵隊さんがやって来て、僕らを取って食べるんだと。だから、その前に母親はこの短刀で僕を殺して自分も死ぬんだと。そう納得してね。父親はまだ戦地から帰ってませんでしたから、『お父さんのお帰りを待てんけどね』と言って母親と話をした」
結局、この心中は未遂に終わったのだが、その夜のことについて母に話すことはできなかったという。
「戦争中のことはね、親子といえども、というか、親子だからこそ探り合わない。探り合えばきっと傷つき合うんだということを子ども心に真剣に僕たちは承知していましたよ。そりゃだって我が子を殺めて自分も死ぬなんてことを母が決意していたってことをどうして子どもの僕が問い返せますか?」
ようするに、この日の鮮烈な記憶、そして安倍政権下で進む日本の歩みに憤りを覚えたことが、戦争をテーマにした映画を撮り続けさせたのだ。
周知のように、『花筐/HANAGATAMI』のクランクイン直前、大林監督は肺がんが発見され「余命3カ月」がと宣告を受ける。だが、大林監督は当時、「文藝春秋」2016年9月号にこんな随筆をよせている。
〈日本は復興・発展。高度経済成長期、僕は大人になった。すると今度は、日本人が自らの手で、日本を壊し始める。僕は町興しならぬ町守り映画を作る事こそが、「敗戦少年」の責務であると。斯くして「3・11」を経て、明治維新以降の日本の「戦争」と「平和」を見直す「古里映画」を作り続けております。敗戦後七十年は「平和〇年」の筈だった。然し今、この日本は!?
人ヲ殺シテ死ネヨトテ、二十四マデヲソダテシヤ。
僕は七十八まで生き延びた。まだまだ、死ねぬ〉
そして、大林監督はがんとつきあいながら、『花筐/HANAGATAMI』を完成させたばかりか、その後も、映画を撮り続けた。それが最新作である『海辺の映画館』だ。
前掲したNHKのドキュメンタリーのなかで大林監督は「戦争」についてこのように語っている。
「みんながしっかりと怯えてほしい。大変なことになってきている。過剰に怖がらせているように思われるかもしれませんが、過剰に怯えていたほうが間違いないと僕は思う。それが、実際に怯えてきた世代の役割だろうと思うので、敢えて言いますけどね。怯えなきゃいかん。戦争というものに対して。本当に」
戦争の恐ろしさをしっかりと認識し、その凄惨さに怯えること。そして、その恐怖を乗り越えたら、今度は「平和を信じる力」を身につけること。大林監督の残したメッセージを私たちはしっかりかみしめる必要がある。
(伊勢崎馨)
最終更新:2020.04.11 04:09