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『ゆとりですがなにか』続編が放送…岡田将生も怒った、年長者による不当な「ゆとり世代」差別

世代や地域でのカテゴライズが生み出す印象論と差別

「新人類」をはじめ、若者たちを世代でくくり、年長者がバッシングする構図は昔から繰り返されてきたことではある。ではあるのだが、「ゆとり世代」の悲劇は、彼らをカテゴライズするために使われた「受けてきた教育」というファクターによって、他の世代をカテゴライズした要素とは違い、単なる印象論でなくあたかも科学的根拠に基づいているかのように受け止められ、しかもマイナス面のみが語られていることにある。

〈団塊にせよ、新人類にせよ、くくりをプラス評価として定義しなおす、ということがされてきたように思います。団塊であれば「しかしパワフルだ」、新人類であれば「たしかに新しい感覚をもっている」と。でも、「ゆとり世代」だけが洒落で終わらず、ぬきさしならない印象になってしまっている。こうした世代論が自分たちに突きつけられたとき、そこにプラス面を定義しなおす、ということができるのかどうか〉

 また、学力とはまったく関係のない、「ゆとり世代」に対する行動様式批判として、「物欲がなかったり、大きな野望をもっていなかったりと覇気がない」「飲み会に参加しないなど、会社への忠誠心が足りない」といったものがあるが、無論、それは世代全体の特徴ではなく「人による」ものだし、もしもそのような特徴があるとしても、それは「ゆとり教育」が原因ではなく、長引く不景気であったり、雇用の安定しない社会状況といったものの影響が関係しているのは言うまでもない。そのうえで、前述の岡本氏はこう語る。

〈人間が社会生活をともにしていくにあたって、他者を認識するとき、社会的カテゴリーで説明することは避けがたくあるだろうと思います。年代・世代をそのまま名指す文脈のなかでそのカテゴリーが使われているときには、ただの区別です。たとえば、何年生まれから何年生まれの人たちはこの学習指導要領で学んだという事実は、ある一つのカテゴリーを確かに構成するし、その人たちが受けた教育内容がこうだったから、つぎの段階の教育ではこういうことを準備しましょうといった検討は必要かもしれない。しかし、働き方や人づきあいのあり方など、別の文脈にまでその区別が持ち越され、しかもその区別を根拠に不当にマイナス評価をされるようなことがあるなら、それは区別ではなく差別になっている。社会的カテゴリーが、もともとそれを発生させた文脈を越境して、別の文脈にまで濫用されてしまった状態が、差別という現象なのではないでしょうか〉

 単なるネタじゃないか、と考える向きもあるかもしれない。しかし馳浩文科相が「『ゆとり教育』が『緩み教育』というふうに間違った解釈で現場に浸透してしまった。どこかで『ゆとり教育』との決別宣言を明確にしておきたいと思った」と「脱ゆとり宣言」をなるものを行い、為政者みずから誤解を垂れ流している現状だ。「自分はその世代だけど小学校から私立だったから、ゆとりじゃない」などと真顔で弁明する者もいる。

『翔んで埼玉』の埼玉disに代表される地域いじりしかり、差異化のゲームやカテゴリーの濫用は、いとも簡単に差別に転化する。そのことにもう少し敏感になってもいいだろう。
(井川健二)

最終更新:2017.12.05 02:09

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