勅語が発布されたのは1890年。右派論客や明治神宮などは、「道徳の荒廃に心を痛めた明治天皇がご自身のお言葉で親しく国民に道徳のあり方を語りかけ、ご自身が率先して道徳を守ることを決意された」などといっているが、これはフィクションだ。旗振り役は、明治政府の軍事拡大路線を指揮した日本軍閥の祖で、治安警察法などの国民弾圧体制を確立した、時の内閣総理大臣・山縣有朋。山縣は、自由民権運動を潰し、天皇と国家神道支配の強化、富国強兵と中央集権体制の確立のため、自分の息のかかった地方長官会議に建議させ、井上毅内閣法制局長官や儒学者の元田永孚らに命じて、この教育勅語をつくらせたのだ。
そして、国民を誘導するために導入されたのが、「親孝行」「夫婦仲良く」など、儒教をベースにした通俗道徳の類だった。教育学者の山住正己は著書『教育勅語』(朝日新聞社)の中でこう指摘している。
「自由民権思想を抑え、日常的に広範な民衆の言動をうまく規制できるものである必要があった。(略)それには身近にあった徳目を利用するのが近道であった」
また、戦後を代表する政治学者・藤田省三も『天皇制国家の支配原理』(みすず書房)の中で教育勅語が儒教を利用したことについてこう書いている。
「勅語が内容的な『簡単』=原始性とすべての理論に対する超脱性を要求されるとき、それに応えて最も簡約化された道徳命題を理論の外から、提供するものは、日用化された五倫を措いて存在しなかったのである」
しかも、その「親孝行」「夫婦仲良く」なども、あくまで家父長制と男尊女卑の明治憲法下のもの、つまり、女性の人権を認めず、家長である男性に家族全員が従うことを前提としたものだった。そういった家族や日常生活での道徳を説くことで、その延長線上にある「日本全体をひとつの家族とみなしたときの家父長である天皇」に従わせる構造をつくりだしたのが、「教育勅語」だったのである。教育勅語が大事にしろと言っている「道徳」や「家族」は国家に奉仕させるためのツールのような存在だったといってもいいだろう。
また、「森友学園のように小さい子どもに丸覚え、暗唱させるのはよくないけど、中身じたいはいい」などというもっともらしい意見があるが、そもそも、教育勅語は、小さい子どもに暗唱させて体に叩き込むことを、あらかじめ意図してつくられていた。草案のひとつは内容の問題だけでなく長すぎて暗唱に向かないとの理由でボツにされており、丸覚え、暗唱という“洗脳教育”と切り離せるものではない。