『韓国「反日街道」をゆく』(小学館)
ここ数年、韓国を嫌悪する人々が国内で増えた。筆者の身の回りも例外ではない。理由をたずねると「戦時中のことを、いつまで日本は韓国に謝り続けなければいけないのか」と返ってくる。「反日左翼」「反日朝鮮人」…少しでも日本を批判すると、ネット上で脊髄反射のように返ってくる「反日」という決まり文句は、今やすっかりおなじみになってしまった。
こう書き出せば、『そういうお前も反日か』という言葉がすぐさま飛んで来そうで、早くも筆が止まる。しかし、続けよう。韓国への嫌悪を露骨に表明する人々と遭遇するたび、内心で思う。いったいどれだけ生身の韓国人と会話を交わしたことがあるのか、と。生身で出会い、ケンカをし、結果距離ができてしまうならまだいい。けれど、多くの場合は嫌韓・嫌中を生業とする一部のメディアや、ネットで作られたヘイト・ストーリーを受け入れ、「だから韓国人は反日」「だから朝鮮人は犯罪者」と結論を先行させているように思う。14日に熊本で起きた大地震では、「熊本の朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだぞ」「朝鮮人の暴動に気をつけてください」とデマが飛び交った。これもまた、民族の中身を先に定義して、暴動を起こす自分好みの朝鮮人を「捏造」するものでなくて何なのか。
人は「反日か親日か」のいずれかに収まってしまうほど、単純な存在なのだろうか。ステロタイプな枠組みの狭間にこぼれ落ちる隣国の風景や、人々の微細な感情に目を向ける余地は、今の社会ではもう、残されていないのだろうか。そんな言葉が喉元にこみ上げるが、思いは日常のなかに埋没してゆく。
前川仁之氏の『韓国「反日街道」をゆく』(小学館)は、そんな一市民のモヤモヤとした感情を背負い、朝鮮半島を文字通り「走り抜ける」ノンフィクションだ。タイトルだけを見れば、その辺に転がる「嫌韓本」と区別がつかず、棚にうっかり本を差し戻してしまいそうになる。しかし、ページをめくると書名は「釣り」だったことに気づく。
出発前、著者は「嫌韓」ブームに母親が影響されていたことなどから、「一つの国を嫌うという感情が含む曖昧さに、疑問は持たれていない」と居心地の悪さを感じていたという。そこから、韓国を自転車で一周する覚悟を固めたことが宣言される。
〈そんなに嫌われる韓国とはいったいどんな国か、この目で見て知りたいと思って旅に出たのだった。旅をして、その結果僕自身も韓国を嫌いになれたら、それはそれで結構だ。〉
すごい身軽さである。自分が好き、ないし心惹かれる国を選んで旅行に出る人は多い。しかし、「嫌い」という感情が差し向けられる国を、わざわざ自らの足で検証しようとする奇特な存在には、なかなかお目にかかれない。