『報ステ』では、若かりし中曽根康弘ら改憲派が「異常な状態でつくられた占領下の憲法」「外国の権力者がつくった憲法でありますから」「もう今日それに引きずられる必要はない」などと弁舌をふるう様が放送された。その狙いは冷戦下における9条の変更、軍隊保持を明記し、海外派兵を可能にすることだった。いうまでもなく、これは岸信介の孫・安倍晋三や昨今の改憲論者が論拠とする「押し付け憲法論」や「安全保障の急速な変化に対応」とまったく同質である。
だが、鈴木氏が発見した音声テープには、こんな証言が記録されていた。憲法制定当時に中部日本新聞の政治部長だった小山武夫氏による、憲法調査会公聴会での発言だ。
「第9条が誰によって発案されたかという問題が、当時から政界の問題になっておりました。そこで幣原さんにオフレコでお話を伺ったわけであります。その『第9条の発案者』というふうな限定した質問に対しまして、幣原さんは、『それは私であります。私がマッカーサー元帥に申し上げて、そして、こういうふうな第9条という条文になったのだ』ということをはっきり申しておりました」
つまり、9条はGHQ側による一方的な「押し付け」ではなく、幣原首相がマッカーサーに直接に提言したものだったのだ。このことは、51年5月の米上院軍事外交合同委員会の公聴会でマッカーサー自身も証言していることだ。そして、マッカーサーは岸内閣の憲法調査会に対しても「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原総理が行ったのです」と書簡で回答していた。
それでは、幣原はいったいいつ、どのようにして「戦争放棄」を新憲法に組み込むよう、マッカーサーに提言したのか。64年刊行のマッカーサーの回顧録によれば、〈旧憲法改正の諸原則を、実際に書き下ろすことが考慮されるだいぶ前のこと〉、ちょうど幣原内閣の国務大臣・松本烝治らが新憲法草案作成にとりかかろうとしていた46年1月24日、幣原は私的な挨拶を名目に、マッカーサーの事務所に訪れていたという。
〈首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意思は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。〉(『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫・訳/中公文庫より)