憲法改正に必要なハードルは実質的には3分の2ではなく、せいぜいが半数以下で十分なのだ。このように法の抜け穴を利用して自分に都合のいいようにコトをすすめるのを脱法行為、もしくは詐欺というのではないか?
人民主権を唱え、民主主義思想の礎を築いたルソーは、自由や権利が侵害される場合には多数決を適用してはならないとした。そして、それを実現する仕組みとして、たとえば多数派が少数派を抑圧する法律をつくらないよう、上位の憲法が禁止する立憲主義が生まれた。だから憲法が単なる多数決で簡単に改正されるなどあってはならないのだ。
ちなみに民主制を徹底的に考えぬいたルソーにとって主権とは立法権に他ならず、そうした立法権を一部の代議士だけが独占する代表制民主制は原理的に否定されている。本サイトの過去記事でも紹介されているが、ルソーによれば代表制民主制は奴隷制と同じである。
本書の著者もそんなルソーに依拠し、たんなる形式主義が民主制にすり替えられた現状に憤りをぶつけている。
〈現実には主権者は、立法にも執行にもほとんどまったく関われない。しかし先ほどの形式の確保(引用者註:主権者である国民が国会議員を選出し、国会議員が法を定め、内閣の一員がそれを行政処分によって執行すること)を民主制の成立と錯視すると、現行制度は「民主的」と目に映ることになる。人々が声をあげたとしても、すでに制度を民主的だと思い込んでいる者は、そのような声をノイズとしてしか受け付けないだろう。〉
結局のところ、たんなる多数決の結果を笠に着た「民主制」なぞペテンでしかない。著者はさらにペテンに加担する者がいかにも言いそうなことにたいして痛快な批判を浴びせる。
〈「政治に文句があるなら自分が選挙して立候補して勝て」といった物の言い方がある。何を根拠としているか不明だが、それを口にする者の頭のなかでは、それが「ゲームのルール」なのだろう。だが、わざわざ政治家にならねば文句を言えないルールのゲームは、あまりにプレイの費用が高いもので、それは事実上「黙っていろ」というようなものだ。人々に沈黙を求める仕組みはまったくもって民主的でない。〉
私たちには“クソゲー”をプレイしない権利がある。一票の格差とか投票率についてグチグチ言うのも結構。だが、真の民主主義は選挙=多数決がひからびたクソだという認識をもつところからしか始まらない。
(松本 滋)
最終更新:2015.06.03 03:26