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ウィーン芸術展公認取り消しを会田誠、Chim↑Pomらが批判! あいトリ以降相次ぐ“検閲”はネトウヨ・極右政治家の共犯だ

 11月4日には、「しんゆり映画祭」での『主戦場』上映に先駆け、日本映画大学新百合ヶ丘キャンパスで、『主戦場』の無料上映会および作品解析・シンポジウムが行われた。ミキ・デザキ監督も出席したシンポジウムのなかで、ジャーナリストの綿井健陽氏は「暴力や圧力に事前に屈してしまえば、そこから自己検閲が広がっていく。戦前のようにハサミを持った人が検閲するのではなく、自己検閲が日本型検閲の行き着くところだ」と語っていたが、その通りだろう。

 今回の「Japan Unlimited」の外務省公認取り消し問題、「あいちトリエンナーレ」をめぐる一連の問題、そして「しんゆり映画祭」での自主規制と「伊勢市美術展覧会」の展示拒否問題を比較すると、それぞれの経緯や「表現の自由」の制限の程度こそ違うが、通底するのは、ネトウヨ-政治家-行政が一体となって、彼らが「反政権」「反日」と“みなした”表現を封じ込める、あるいはやり難くなるという空気をつくり上げていることだ。

 政治権力は表向きこそ「表現の自由」に「配慮」して別の理由を掲げたり、「主催者の自己判断」にすり替えようとする。だが、いずれのケースも、公認を与えるとか助成金を出すなど、公権力の存在抜きには起こり得ないことであり、だからこそ、表現を萎縮させる“事実上の検閲”なのだ。

 そして、これが立て続けに起きているということは、決して、表現者だけの問題ではなく、私たち自身にも直結してくる。ひとつの前例ができてしまえば、他の様々な言論活動や日常生活に余波を与えるからだ。少なくとも、安倍首相のモノマネのような政治風刺は今後、公共の場から姿を消していくだろう。それは最終的に“安倍批判”そのものが封印されるという状況に結びつく。

 大げさに言っているのではない。すでに、公権力が直接手を下さなくとも、ネトウヨが安倍自民党の別働隊としてクレーム攻撃をしかけ、行政が政権に忖度し、萎縮した主催者が自己規制に走るという状況が成立してしまった。旧ソ連や中国共産党のような直接的な弾圧ではない、日本型の言論管理社会は到来しつつあるのだ。いま、声を上げ続けなければ、本当にこの国は行くところまで行ってしまうだろう。

最終更新:2019.11.07 09:04

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