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しんゆり映画祭『主戦場』上映中止で井浦新、是枝裕和監督も抗議の声! 映画祭代表は川崎市への「忖度」認める発言

 イベント終了後、本サイトは中山代表を直撃。中山代表はこれまでメディアの取材に対し、「市からの連絡は圧力と受け止めておらず、忖度もしていない」(「カナコロ」10月25日)などと話していたが、川崎市側から「懸念」を伝えられてからの心境の変化について「来年以降の補助金引き上げや減額を恐れたのではないか」と尋ねると、「私が市を悪く言ってしまうと……」などと言い澱みながら、「そうなったら……あると思うよね、普通は」「忖度かなあ……」とこぼすなど、映画祭の運営費1300万円のうち600万円を拠出する市からの「懸念」が中止に大きく影響したことを事実上認めた。

 前回の記事で報じたように、市の担当課は本サイトに対して「主催者から情報提供があったことに対してお答えしただけ」「私たちは『主要な複数の出演者から上映中止の裁判を提起されているものについて上映はどうなのか』と言っただけ」と「だけ」を強調、「上映中止は主催者の判断であり、市の介入ではない」と主張している。しかし、その安易な介入が映画祭側への“圧力”となったことが、あらためて明らかになった。上映中止の決定が「映画祭主催者の自主判断」という主張は、単なる責任逃れと断じざるをえない。

 あらためて言うが、「表現の自由」は何より、公共の開かれた場で、大衆に受け止められることに意味がある。そもそも、議論の自由が保障されることこそが民主主義の最低条件であるからだ。「しんゆり映画祭」の中山代表らは「安全面の不安」を表向きに語るが、中止に至るまでの経緯や心境の変化を追っていくと、第一に、共催者の市との関係悪化を過剰に恐れていたことは明白だ。

 こうしたことが繰り返されると、それこそ、国や政治権力が難色を示す「表現」は、開かれた場で民衆に問われる前に“自主規制”という形で封印されてしまうことになる。事実、「しんゆり映画祭」のケースでは、脅迫やテロ予告など起きていないにもかかわらず、行政から「懸念」を伝えられただけで、一気に事務局の一部が中止へと舵を切ってしまった。

 「表現の自由」は表現者の一方通行ではない。受け手の知る権利や社会的議論の契機に直結するからこそ、その後退を「小さな市民映画祭で起きたこと」と片付けるわけにはいかないのだ。このまま“悪しき前例”にしないためにも、本サイトは「しんゆり映画祭」での『主戦場』上映を強く望む。

最終更新:2019.10.31 12:20

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