デザキ監督の説明をふまえれば、今回、映画『主戦場』の上映差し止めを求めて抗議している“否定派”の出演者らが、いかに事実を歪曲して、難癖をつけているかは瞭然だろう。
だいたい、ジャーナリズムの分野では取材者や制作者が編集権を有しており、被取材者が公開前に口を出すということ自体、報道の自由を鑑みても、外部の介入による内容変更を防止する意味でも、普通はあり得ないのである。そして、言うまでもなく、被取材者の発言を伝えたうえでこれを解釈するのはジャーナリズムにのっとった正当な論評行為に他ならない。
結局のところ、こういうことではないのか。連中は、デザキ氏が歴史修正主義に加担してくれるのを期待して、嬉々として取材に応じ、いつものトーンで好き勝手に語った。ところが、映画の内容とその反響をみて、自分たちの思うようになっていないことを知った。それで、いまになって「商業利用されるとは思わなかった」などと難癖をつけて、映画を封印させようと躍起になっているのである。そうとしか思えないのだ。
5月30日の“否定派”出演者による会見の後、本サイトの記者は藤岡氏に「もしも映画の内容が満足のいくものだったら『商業利用』を理由に抗議をしたか」と直撃したが、藤岡氏は眉をしかめて「学術目的だと思ってましたから。仮定の質問には答えられませんよ」と言うにとどめた。
デザキ氏は6月1日の会見で「もし、私の結論がいわゆる歴史修正主義者たちにとって好ましいものであったならば、『これ以上フェアな慰安婦問題に関する映画はない』と彼らは言っただろうと私は確信しています」と語り、こう続けた。
「私はリサーチを重ねて、両方のサイドの主張を聞いた後、やはり自分の考えと結論を入れることこそが責任のあるやり方だと考えました。すべての主張は同等に説得力があるわけではなく、すべての主張が同じ重さを持っているわけではないことを示すのは、重要だと思ったのです。最終的に私の結論がどういうものか。どうしてその結論に至ったかというものは明快で、そのプロセスがわかるがゆえに『主戦場』はプロパガンダ映画ではないと思います。この透明性によって、観客が結論に同意することも同意しないことも自由にできる。映画を見て、それぞれの論点について観客自身が検証することを推奨しています」
しばしば、歴史修正主義者は自らの否定言説が批判を浴びると、「表現の自由を抑圧するのか」などと喚き立てる。だが、今回の『主戦場』をめぐる騒動でハッキリしたのは、そういう連中の方こそ、実際には「表現の自由」など微塵も考えていないということではないのか。だから何度でも言おう。判断するのは映画の観客だ。
(編集部)
最終更新:2019.06.08 04:06