実際、noteの文章でも、一見、全面的に非を認めているように見えるが、よく読むと、〈対談という形式だと発言をカットすると校正上対談相手の発言にも修正が必要になるので,対談中で出た放言を記事化してしまったことは非常に反省しています〉とか、〈僕は徹頭徹尾,「日本にお金がないけどどうする? 明日から医療費払えないけどどうする?」という現状を悲観的に見た将来的な仮定(財政に関する議論は別なところで行いたいと思います)に対してコストの議論を考えていたばかりで,QOLや生命倫理の話と繋がって理解されてしまったのなら,それは非常に意図と異なり残念です〉など、言い訳がましい自己弁護が散見される。
さらにこの反省文でもうひとつ気になるのは、自分たちの差別性に対する無自覚さだ。
落合はたとえば、〈コストの議論を考えていたばかりで,QOLや生命倫理の話と繋がって理解されてしまったのなら,それは非常に意図と異なり残念です〉〈僕は命を選別する意図ではない〉と述べているが、社会保障のコストと生命倫理の話を切り離せるという認識がそもそも誤っているだろう。これは何も終末期医療に限った話ではない。医療費だろうが年金だろうが生活保護だろうが、すべての社会保障に関する議論は究極的には「命の選別」につながり得る可能性を孕んでいる。
にもかかわらず落合は、「僕は命を選別する意図ではない」と簡単に言い切ってしまえるところに、この学者の無自覚さが表れている。「命を選別する意図ではない」というのは、杉田水脈衆院議員はじめ差別発言をした政治家がよく「差別の意図はない」「差別でなく区別」というのと同じだろう。
こうした「差別性への無自覚」は前回の記事でも指摘したが、落合のなかにもともとあるものだ。
〈平等という点で、日本人に合わないのは「男女平等」です。日本ほど男女差別がある国は珍しいと思います。男女が合コンに行ったり、飲み会に行ったりすると、当たり前のように男性のほうが女性より多く払いますが、あれは性意識の平等感に反します〉
〈日本人は、同じ仕事をしたら、公平にお金を払うということには敏感です。しかし、飲み会では男性が女性より多く払う。これは平等意識が低いからです〉
〈インドのカーストに当たるのは日本の士農工商ですが、日本は本質的にカーストが向いている国だと思っています。そもそも、士農工商という序列はよくできています〉(すべて『日本再興戦略』(幻冬舎)より)
これらも文脈無視の切り取りなどと抗弁するかもしれないが、これらの記述の表現だけでも差別問題に対していかに浅薄な認識かというのはよくわかるだろう。