同時に、戦争世代・遺族の減少によって寄付金等の右肩下がりが止まらない靖国にとって、「天皇親拝」の実現は、二重の意味で“生き残り”をかけた悲願でもある。
靖国神社は德川宮司時代の2015年、夏の「みたままつり」での露店出店を取りやめた。德川氏は「若者の境内でのマナーの悪さ」「静かで秩序ある参拝をしてほしい」などを理由に挙げていたが、実際、祭りに際した暴行や痴漢などの性的被害なども靖国内部で報告されていたという。結果、参拝客が激減したのだが、その消えた露店が、小堀氏が宮司となった2018年に復活している。そのことからも連中の本音がうかがえよう。
德川宮司批判の急先鋒であった前述の元靖国神社禰宜・宮澤氏は、当時、靖国の総務部長として露店中止に強く反対していた。著書『靖国神社が消える日』(小学館)では〈将来の靖国を支える若者の教化という観点に立てば、あれほど多くの若者を集め、しかも「平和を求める施設であることをアピールするためにはじめられたこの試みは、大きな成功をおさめた」とまで評価されていたみたままつりを活用する方が、はるかに合理的で生産的でした〉と書いている。
ものは言いようだろう。しかし、実際は、靖国神社が喉から手が出るほど欲しがっているのは、信仰に繋がる卑近な“PRとゼニ”なのだ。
煎じ詰めれば、A級戦犯が合祀されている靖国の「英霊」ではなく、各地で亡くなった戦争犠牲者を分け隔てなく慰霊する、それこそが平成の天皇の責務だと自覚した今上天皇の在り方は、国家神道的イデオロギーの復活を目論む集団から見て、あるいは今後の先細りを宿命づけられた靖国神社という宗教法人にとって、まさしく「不敬」をはばからず攻撃したくなる“目の上のたんこぶ”なのだろう。
だが、それは所詮、八つ当たりでしかない。気鋭の政治学者である白井聡は、著書『「靖国神社」問答』(小学館)の解説文のなかで、靖国の歴史的欺瞞の分析を踏まえたうえで、こう提言していた。
〈してみれば、われわれが目指すべきは靖国の「自然死」である。多くの人が、靖国の原理を理解すること――すなわち、そこには普遍化できる大義がないことを知り、「勝てば官軍」の矮小な原理を負けた後にも放置しながら、あの戦争の犠牲者たちに真の意味で尊厳を与えるための施設としては致命的に出来損ないであり続けているという事実を知ること――がなされるならば、誰もがこの神社を見捨てるであろう。〉
靖国神社と靖国至上主義を叫ぶ右派勢力は天皇を攻撃する前に、まず、自分たちの姿勢を考え直すべきだろう。
(編集部)
最終更新:2018.10.10 12:32