今回だけのことではない。安倍首相による今年1月の施政方針演説を思い出してほしい。安倍首相は冒頭から「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として迎えました」と、会津藩出身で東京帝国大学の総長を務めた山川健次郎を持ち出し、こう述べた。
「しかし、明治政府は、国の未来のために、彼の能力を活かし、活躍のチャンスを開きました」
「官軍」側の安倍首相が、わざわざ「賊軍」の山川健次郎を持ち出して「明治政府は賊軍の人間にもチャンスを与えてやった」と極めて上から目線で演説をぶったのである。
印象操作も甚だしい。たしかに、山川は戊辰戦争後、長州藩士・奥平謙輔のもとに身元を預けられ(ちなみに奥平謙輔はのちに萩の乱の首謀者の一人として斬首された)、国費でアメリカへ留学、名門イェール大学で学んだ帰国後は、科学者として研究や後進育成に励んだ。だが、“明治政府は賊軍を受け入れてやった”と言わんばかりの安倍首相の主張は明らかに欺瞞だ。少なくとも、山川ら会津が薩長らから受けた仕打ちを考えれば、そんなことは口が裂けても言えないはずだろう。
薩長を中心とした討幕軍と明治新政府軍が、実のところ残忍なテロ集団であったことは前述した。そして、戊辰戦争において熾烈を極めたのが、「最大最悪の戦闘」と語り継がれる会津戦争だ。
なかでも鶴ヶ城では会津藩の非戦闘員を含めた多数が約1カ月間に及ぶ籠城戦を展開。当時10代だった山川も家族とともにこの籠城戦に参加した。新政府軍からの苛烈な攻撃と食料や医療品の困窮で、城内は壮絶な状況となった。山川も編集に携わった史書『會津戊辰戰史』にはこのように記されている。
〈(前略)戦酣(たけなわ)なるに及び病室は殆んど立錐の地なきに至り、手断ち足砕けたる者、満身糜爛したる者、雑然として呻吟す、然れども皆切歯扼腕敵と戦はんとするのを状を為さざる者なし、而して西軍の砲撃益々劇烈なるに及びては、榴弾は病室又は婦人室に破裂して全身を粉砕さられ、肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり、その悲惨悽愴の光景名状すべからず。〉(引用者の判断で旧字体を新字体に改めた)
壁に肉片までが飛び散っているとは、まさに惨烈と言わざるをえないが、新政府軍は城内から逃れてくる兵士や民間人を捕まえ、場内の様子を聞き出しており、その危機的状況を知りながら交渉を閉ざして、砲弾を撃ち続けた。そして、会津が降伏した後も、新政府軍は「賊軍」の遺体の埋葬を禁じ、一種の見せしめとして放置した。城下には、会津人の朽ち果てた亡骸が散乱していたという。
しかし、会津にはさらに過酷な運命が待っていた。新政府軍の戦後処理は、会津藩領を没収し、ほぼ全員を青森の下北半島へ流刑に処すというものだった。不毛の地で寒さや貧窮にあえぎ、子どもや老人が次々と亡くなったという。その後の薩長閥中心の明治でも、会津は辛酸を舐めさせられつづけた。