いずれにせよ、安倍応援団の産経がどんなに糊塗しようが、米朝会談に向かうこの間の国際社会の流れに安倍政権だけが置いてけぼりをくらったのは、まぎれもない事実である。そのうえで言うが、もしも、本当に安倍首相が開催地を指定したのならば、日本政府は、とりかえしのつかない失態を演じたことになるだろう。
というのも、会談の舞台であるシンガポールのセントーサ島は、戦中の日本軍が朝鮮人の女性を騙し、慰安所に連行したことが明らかになっている場所だからだ。
周知の通り、日本は太平洋戦争で東南アジア各国を侵略、傀儡政権を樹立したり、軍の統治下に置くなどの支配を進めていった。イギリスの植民地だったシンガポールもそのひとつだ。
1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃と同時に英領マレーへ奇襲上陸し、翌年2月にシンガポールを占領。シンガポールを「昭南島」なる名称に変え、日本語の使用を強制するなど圧政を敷き、華僑を抗日運動の中心とみなして粛清(虐殺)した。「大検証」と呼ばれるこの華僑粛清の実態は、トラックで島内の人目のない場所に運び、取り調べや裁判もなしに機銃掃射したり、一軒家を襲撃して華僑を見つけ次第殺害するなど、ほとんど無差別虐殺であった。終戦まで続いた日本統治時代は、いまでも“The Dark Years”と呼ばれている。
そうした侵略のなかで、日本軍は各地に慰安所をつくった。華僑粛清の直後には日本軍の宣伝班の下で刊行された新聞に慰安婦募集の広告が出ている。慰安所には、大勢の朝鮮人女性も動員された。このことは「16歳の時にシンガポールの慰安所に連れて行かれた」という朝鮮人元慰安婦の証言だけでなく、近年発見されたビルマ(現・ミャンマー)とシンガポールの慰安所で帳場の仕事をしていた朝鮮人男性の日記からも明らかになっている。また、独立自動車第四二大隊にいた元日本軍兵士も「トタン塀」と呼んでいた慰安所には「娼妓は朝鮮人が多かったが、マライ人もいた」と証言している。
そして、米朝会談が行われるシンガポールの南端、セントーサ島(旧称・ブラカンマティ島)でもまた、朝鮮人女性たちが慰安婦として働かされていた。しかも、彼女たちは別の仕事だと騙されて連れてこられたのだ。
当時、東南アジアで通訳として従軍していた永瀬隆氏が証言している。永瀬氏は、日本が戦中につくらせたタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で陸軍の通訳をしていたことで知られる日本人男性だ。日本軍による泰緬鉄道建設にあたっては、数万人のアジア人労働者や連合国軍の捕虜が非人道的な扱いを受け犠牲となっている。永瀬氏は戦後、反戦平和の立場から個人でその慰霊と償いの社会活動を続け、2011年に亡くなった。
その永瀬氏が生前、月刊誌「MOKU」(黙出版)1998年12月号での高嶋伸欣・琉球大学教授(現・名誉教授)との対談のなかで、セントーサ島での体験を語っていた。シンガポールでも数か月の間、陸軍の通訳として勤務しており、その時、慰安所の女性たちや軍の部隊長と話をしたことをこのように振り返っている。
「(セントーサ島には1942年の)十二月中旬までいました。十一月になって隊長が僕を呼んで、『実は朝鮮の慰安婦がこの部隊に配属になってくるんだが、彼女たちは日本語がたどたどしいから、日本語教育をしてくれ』というんです。僕は『嫌なことをいうな。通訳はそこまでしなきゃいけんのか』と思ったけど、その隊長はもう島の王様気取りでおるんです。仕方がないから、慰安婦の人たちに日本語を三、四回教えました」
永瀬氏は「そのうちに、僕は兵隊じゃないから、慰安婦の人も話がしやすいんだな」と思ったという。そして、朝鮮人女性たちに慰安所にきた理由を聞くと、騙されて連れて来られたというのだ。
「それで僕も『あんたたちはどうしてここへ来たんだ』と聞いたら、『実は私たちは、昭南島(シンガポール)の陸軍の食堂でウエイトレスとして働く約束で、支度金を百円もらって軍用船でここへ来たんだけど、着いた途端に、お前たちは慰安婦だといわれた』というんです」