桂歌丸と二代目林家三平がこうした発言や行動をしているのは、言うまでもなく、戦時中の国策落語が落語の本質とかけ離れたものだからだ。
落語は本来、庶民がもつ浅はかさや愚かさを肯定するという構造を持ったものだ。落語の登場人物たちは、しょっちゅう仕事をサボっては昼間から酒を飲んでいるし、忍耐を知らずに女・酒・博打に散財して金に困るし、つまらない見栄を張って大失敗したりする。しかし、落語は、そんな与太郎を「面白い」と肯定して、愛する。
そして、一方では、権力や権威が押し付けてくる価値観に対しては、徹底して馬鹿にし、それがいかにうわべだけの無意味なものであるかを暴き出す。
「総理大臣、いつまでやってんだ」と発言した柳家小三治も、「週刊文春」(文藝春秋)11年7月21日号のインタビューで、自らの落語についてこのように語っていた。
「私の高座は決まった落語をやればいいってのじゃなくて、その時その時の世の中を顧みながら、古い落語がいかに現代に生きてるか伝える、そういうアプローチでやってきた」
「落語というものは、ずっと人々の心の底を捉えてきた文化。人の本質、本能を押さえていたからこそ時代が変わっても喜ばれた」
特攻隊を美化する落語をやって悦に入っている桂春蝶がいかに、落語というものを理解していないかがよくわかる。
いや、春蝶だけではない。公文書の改ざん問題をきっかけに安倍政権の支持率が急落していくなか、さすがに各ワイドショーも政権をある程度批判的に扱わざるを得なくなってきているが、それでも長く続いてしまった萎縮の姿勢を容易に変えることはできず、コメンテーターとしてワイドショーに進出している多くの芸人たちのなかで「総理大臣、いつまでやってんだ」とまで言いきれるコメンテーターはいない。
もはや吉本の芸人たちには期待できないが、せめて落語家たちにはどうか、柳家小三治の姿勢を見習ってほしいものである。
(編集部)
最終更新:2018.04.15 06:10