今回の『ワイドナショー』でコメンテーターの席に座っていた福嶋麻衣子(もふくちゃん)も番組内で「渡辺直美さんとかいろいろモノマネされているけど、別に黒塗りにはしてないじゃないですか。それだから世界中で受け入れられているみたいな。塗らないやり方でのモノマネっていうのはいくらでもあると思うんですよ」と指摘していたが、まさにその通りで、渡辺直美がビヨンセのモノマネをする際、別に顔や身体を黒く塗ることはない。
それでも、渡辺直美とビヨンセでは肌の色も体型もまったく異なるのに、彼女が「Crazy In Love」をBGMに踊り出すと、それはビヨンセにしか見えなくなる。それが人々の笑いを呼ぶのは、渡辺直美がビヨンセの細かい動きを徹底的に研究し、それを再現する技術をもっているからであり、そのようなテクニックがあるのであれば、モノマネ芸人であろうとも顔を黒塗りにする必要などないのだ。では、なぜ黒塗りが必要なのか? それは、知識と技術が足りないからだろう。松本は番組内で「黒塗りにしてモノマネした人が今後出てきたら、同じぐらい叩かれないと、今後は浜田差別になりますよ」とも語っていたが、そういう問題ではないのだ。
そして、二つ目は、「はっきりルールブックを設けてほしい」という発言である。言うまでもなくこれは「世間的な価値観とか、国際的な問題意識とか、そんな面倒くさいことはいちいち考えたくないよ」という思考停止の意思表示にほかならない。
浜田のブラックフェイスが批判されたのは、「ただ黒塗りにしただけで“エディ・マーフィーのモノマネ”と称して笑いにしようとした」点にある。もし浜田が『ビバリーヒルズ・コップ』の名シーンを完璧に再現してみせたうえで笑いをとっていたのなら、ブラックフェイスは必要なかっただろう。あるいはそこまで黒塗りにこだわるというのであれば、「なぜ黒塗りがNGなのか」その差別の歴史もふまえたうえで、それをも突破するような新しいお笑い表現をつくり出すこともできるかもしれない。
そこを単純に「はっきりルールブックを設けてほしい」などと言って考えることを放棄するから問題が起きるのだ。このような短絡的な発想こそが、現在お笑いの表現し得る範囲を狭めている大きな要因のひとつである。
たとえば、放送禁止用語とされているものだって、文脈や使い方によっては差別的な笑いでなくむしろ差別を批判するような笑いにすることもできるかもしれないのに、そういった文脈を踏まえることを放棄して一律でNG項目のリストに加えてしまうから、自分で自分の首を締める事態につながっている。