この「政府と国民はどっちも戦争責任がある」なんて典型だろう。たしかに、先の戦争で国民も戦争に熱狂し支持していたのは事実だが、政府の政策に反対する反戦論をおさえ込み、迫害し、大本営発表でミスリードしていった政府と、国民の責任を同列に並べられるはずがない。
しかも、本当にその過ちを繰り返さないために「国民が自分たちで国を形作っていかねばならない」としたら、それこそ、政府がおかしなことをしていないかを常に批判的に監視し、政府に対して批判の声をあげる必要があるはずだ。先の戦争で国民が政府を妄信し戦争に熱狂したことを反省するなら、その轍を踏まないために、「権力が法律を濫用する危険性がないか」と警鐘を鳴らすのが、知識人の役割だろう。
しかし、三浦は逆で、「現在は戦前とは違う」「共謀罪は治安維持法のように危険じゃない」「民主主義は成熟して、警察は抑制されている」などと言って、批判を封じ込めようとする。
あげく、三浦が政府批判の代わりに提案した結論が、「現代人は志高く頑張るべき」(笑)。お前は中学生か、と思わずつっこみたくなる薄っぺらさではないか。
結局、三浦は神視点で「どっちもどっち」的なロジックを語り、中立的で、知性があるように錯覚させているが、実際は権力や政府の政策を擁護し、政権批判者を批判しているだけなのである。
それは、この東京新聞のインタビューだけではない。共謀罪の強行採決直前のギリギリのタイミング、6月7日朝日新聞のインタビューでもまったく同じ手口を駆使していた。三浦はまず、こう切り出す。
「政府は一般人の自由は侵害しないといい、その説明を真に受けている人が多い。結果として「安全」と「自由」は時に対立するものという本質的議論が深まっていません。」
政府の進め方に異を唱えるポーズから入っているため、てっきり、このあと法案に対する批判、あるいは政府のウソの説明に対する批判が展開されるのかと思いきや、三浦は政権や法案を具体的に批判することは一切せず、反対論のほうを批判し始めるのだ。
「一方で、朝日新聞を含むリベラルメディアの反対論にも違和感がある。「治安維持法の復活」といった批判は歴史的な文脈を無視した極端な言い方です。私が出演するフジテレビの「ワイドナショー」で、松本人志さんが「共謀罪」について「いいんじゃないか」と発言しました。まず、テロが怖いという庶民感覚がある。批判する側が極端な言い方をするほど、ふつうの人は引いてしまい、かえって賛成側に流れていく。」