しかし、問題なのは、「子どもの教育に悪影響をおよぼすものが街から消えるなら、風紀を乱す不快なものが目に入らなくなるなら、エロ本がコンビニから消えようとどうでもいい」、そういった一見もっともらしい考えのもと、大した議論もなされぬまま規制が実行されようとしているところにある。
コンビニで成人誌が売られることが問題なのであれば、きっちりとゾーニングすればいいことである。立ち読みどころか、表紙すらまともに見ることができなくなれば誰も買うことができなくなる。それは、かつて「自動販売機の存在そのものが「悪」だという話にすり替わってしまっていった」のと同じことだ。
とはいえ、残念ながら、この流れは変わることはないだろう。「コンビニで子どもの目にエロ本の表紙が飛び込んでくるのは問題」と言われてしまえば、そのもっともらしい意見に説得力のある異議を申し立てるのは至難の業だからだ。しかし、そのような考え方は危険である。漫画家のちばてつや氏は、エロ・グロ・ナンセンスの規制こそが、国家権力による過度な表現規制、および、情報統制への地獄の一丁目であると警鐘を鳴らしている。
〈戦前もまず、「エロ・グロ・ナンセンス」がやり玉にあがりました。エロ小説とかエロ写真とか…。「日本がこんな大変な時に、こんなものが出回っている」「こんな下品なものはこの世から消してしまえ」という雰囲気があった。そういうものは取り締まりやすいし、そのための法律も作りやすかったんですね。
そのうち、同じ法律で新聞記事や本、放送の規制にまで広げていきました。国民の目をふさぎ、耳をふさぎ、口をふさぐというように、国民の考えそのものを取り締まっていくことになっていった。権力を持つ人たちは自分たちが持って行きたい方向へ、国民ごと国を持って行く。反対する人、自分たちにとって都合の悪い余計なことを言う人はどんどん牢屋に入れられた。それが戦前の日本だったんです。
ぼくも5人の子どもがいました。世間には子どもに見せたくないものはたくさんあります。でも、たとえば何が「児童ポルノ」かは、権力を握った人たちが判断して取り締まることになる。しかも、ただ持っているだけでも処罰される。処罰の対象が漫画やアニメ表現にまで広げられると、さらに拡大解釈されかねない。どういう表現をするのか、報道をするのか、どういう集会が許されるのかということに発展しかねません〉(14年9月7日付しんぶん赤旗日曜版)
エロ規制の道の先は、公権力による言論弾圧につながっている──。これは、被害妄想でも、世迷い言でもない。歴史が証明していることなのである。
(田中 教)
最終更新:2017.12.01 05:51