暮らしのなかに美しさを発見する、その心を奪うのが戦争であり原発事故だ。松浦氏のいう〈安らかに楽しく過ごす〉ために、花森氏は〈ぼくらの暮しをなによりも第一にする〉と掲げ、政府や企業を敵に回すことを厭わなかった。そうしなければ暮らしは守れないということを、花森氏は戦時中の経験を通して痛感していたはずだからだ。
一方、松浦氏が口にする「暮らし」とは、物質的価値に支えられた表面的なものとしか思えない。松浦氏が大事にする「ていねいな暮らし」とやらだって、ヨーロッパのほうきで部屋の塵をはらい、作家ものの器で京都の茶を淹れ、アンティークの型でマドレーヌを焼くといった「手仕事」だの「時代を越えたデザイン性」だのといったキーワードを消費しているだけで、「暮らし」そのものは社会や政治と切り離しては考えられないという根本を理解していないように感じるのだ。だからこそ、彼が「暮しの手帖」編集長の後に上場企業であるクックパッドに移籍したことは、非常に合点がゆく展開だった。つまり、「ていねいな暮らし」とはコンテンツであり、ビジネスなのだ。花森的思想と相容れるはずもないのである。
そこで現在の澤田編集長なのだが、彼は今年7月に東京新聞の寄稿文のなかで、「暮しの手帖」編集部のOBである小榑雅章氏から「だまされない、賢い生活者であるための雑誌をつくってください」と言われたことを述べたうえで、文章をこうまとめている。
〈ぼくら庶民は「為政者はだますものという認識」「常に疑うこと」を標準装備にしておいたほうが、生活上安全だと思います。かなしいことだけど〉
〈民主々義の〈民〉は 庶民の民だ〉と言い切った花森氏に通ずる、〈ぼくら庶民〉という生活者に立った主語。──「暮しの手帖」は編集長交代で「変わってしまった」のではない。「本来のあるべき姿に戻った」だけなのだ。
「暮しの手帖」が朝ドラによって脚光を浴びるこのタイミングで花森イズムを少なからず継承する編集長が雑誌をつくっていることは、じつに喜ばしいかぎりだ。それでも「弥太郎さん時代のほうがいい」という人は、「天然生活」でも読んでいればいい、それだけの話である。
(大方 草)
最終更新:2017.11.12 02:48