アンデルセンの“雪の女王”は「善でも悪でもなく人智を超えた神のような象徴的存在」「人間を退ける「厳冬」という季節そのもののイメージを形象化した存在」であるのに対し、『アナと雪の女王』で“雪の女王”たるエルサは「悩み苦しむ生身の人間」であり、「自然の猛威のごとき象徴性」はない。
こうした改変について、叶は「映画からは人間と不条理な自然との対比、広大で無慈悲な世界の広さ、季節のうつろいといった詩情、様々な女性たちの連鎖や社会的成長といった詩情や寓意はほとんど感じられない」「心の問題で自然環境も政治問題もすべてクリアできてしまうわけで、確かに「シンプル」だ。」と手厳しい。
実際、原作のもつ「詩情や寓意」は映画にするのは難しかったようで、ディズニーで『雪の女王』映画化の話は1939年頃からたびたび持ち上がっていたそうだが、なかなか実現に至らなかったのだという。しかし、それが長い試行錯誤を経て、単なる悪役として描かれることの多かった “雪の女王”というキャラクターを主人公とする新解釈にたどり着いたことで、『アナと雪の女王』が生まれ、そして大ヒットした。
当初案では悪役だったという雪の女王エルサをアナという妹を持つ姉にし、その内面を描いたことで、共感を得た。このエルサの苦悩に心打たれ、作品に引き込まれたという人も多かったのではないか。
神のような存在、畏怖すべき自然の象徴としてその内面が描かれることのなかった“雪の女王”を、生身の人間としてその内面の葛藤を描く。“厳冬”を人間を退ける絶対的な恐れの対象としてでなく、共生可能なものとして描く。これらの改変は、原作を単にシンプル化したわけでなく、その先を描いたといえないだろうか。
たとえば、『アナ雪』には絶対的な“悪”は登場しない。エルサの魔力は封印すべき“悪”ではなく解放するべき個性であり、エルサの魔力による厳しい冬も忌むべき季節ではなくうつろう季節のひとつだ。また、ディズニーヒロインに幸せをもたらすはずの王子は悪役で、物語のクライマックスは冒険をともにした庶民男子との恋愛の成就でもなく、姉妹の和解だ。
かつてのお約束だった“勧善懲悪”と“王子さまと結ばれてハッピーエンド”というディズニー映画を象徴する2つのポイントが、『アナと雪の女王』では完全にひっくり返されているのだ。これは、旧来の“ディズニー化”とはまったく異なるものといっていい。今後の“ディズニー化”のありようにも影響を及ぼす変化でもあるだろう。
実は、今回はアンデルセンの『雪の女王』について「Story Inspired by(~に触発された物語)」という表記が使われ、日本語訳も「原作」ではなく「原案」となっている。ディズニー映画ではこれまでも改変の度合いによって「Based On(~に基づく)」「Adapted From(~の改作)」など使い分けられていたようだが、どんなに原作の設定を根本から変えていても日本では「原作」と訳されてきたという。この表記の違いを見ても、『アナと雪の女王』映画化には、相当な苦労があったことがわかるし、もはや「原作」とは呼べないと思えるほど、新たな作品に生まれ変わったという証拠ではないか。