沖縄に限ったことではない。たとえば首都圏にも横田空域という米軍管理の巨大空域があり、米軍機が墜落事故を起こせば、日本側がその区域に立ち入ることはできない。つまり、潜在的には日本全土が“治外法権”となる可能性があるのだ。
本書によると、この基地という名の“秘密のドア”から、米軍関係者やCIAがフリーパスで出入りしている可能性が高いという。つまり、日本には“国境もない”──そう、法治国家としての主権など、虚構だったというのである。
何も大げさに言っているわけではない。まず、日米安保などの条約は、上で挙げた“密約”もふくめて、国際法上で効力を持っている。これらが日本国憲法や国内法の上位に位置するのは、わが国の司法論理の帰結なのである。
というのも、在日米軍が合憲か問われた砂川事件最高裁(1959年)で、司法は違憲立法審査権を放棄する判決をだしているからだ。このとき「高度の政治性を有するもの」は「裁量権の限界」とする「統治行為論」によって、「高度の政治性」の適用次第で司法を停止させる力があることが法的に確定したのである。しかも、「この砂川裁判の全プロセスが、検察や日本政府の方針、最高裁の判決まで含めて、最初から最後まで、基地をどうしても日本に置きつづけたいアメリカ政府のシナリオのもとに、その指示と誘導によって進行した」ことが、2006年に公開されたアメリカの公文書によって明らかになっている。
その結果、外務官僚や法務官僚たちは“オモテの法体系”を軽視するようになった。「米軍再編」や「脱原発」を訴えても、外務省やアメリカがそれを認めなければ、一国の首相でさえも身動きがとれなくなるのである。鳩山の辞任劇にもこうした力が働いていたわけだ。
さらに本書によれば、実は原発の問題もまた基地問題とよく似た構図になっているのだという。「安全神話」のもとで発生した未曾有の大事故。欧州では3.11をきっかけとして、多くの国がエネルギー政策を転換した。にもかかわらず、当事国である日本の政府は原発再稼働を既定路線としている。この異常としかいいようがない事態の背景にも、やはりウラ側が存在する。
たとえば、2012年6月に改正された原子力基本法には、「基本方針」である第二条のなかに〈我が国の安全保障に資することを目的として〉という文言が盛り込まれている。
「砂川裁判最高裁判決によって、安全保障に関する問題には法的なコントロールがおよばないということが確定しています。つまり簡単にいうと、(中略)震災後は『統治行為論』によって免罪されることになったわけです」(同書)
つまり、原発に関しても「高度の政治性を有するもの」として、官僚の手中におさめられる可能性があるのである。では、仮にシナリオが履行されたとき、官僚が従う“ウラの最高法規”はどのようなものであろうか?