「最近の日本の刑事司法を取り巻く傾向──特にここ10年ほどの、いわゆる『厳罰化』傾向は相当に異常だと私でも思います。世界全体の流れからすれば明らかに逆行している。これは一種の揺り戻しというか、バックラッシュ現象でしょう」
「かつての検事は、私もそうでしたが、本当にどうしようもない事件は別として、できるだけ死刑求刑を避ける傾向がいまより遥かに強かった。検察側も量刑不当で控訴することに慎重だった。裁判官もそう。死刑判決にはいまよりずっと慎重に臨んだ。誰だって死刑を求めたり、言い渡したりするのは避けたい。嫌なものですから。(後略)」
「(前略)ただ、社会の閉塞感なども影響しているのでしょうが、『厳罰』を求める国民の声が極めて大きい。マスコミ報道の影響もある。検察にせよ、裁判にせよ、それは反映させざるを得ませんから。(後略)」(青木理『絞首刑』講談社、2009年)
繰り返しになるが、本来、刑事事件は、刑法の枠組みのなかであくまで事実に基づき理性的かつ論理的に審理されるべきものだ。法や判例ではなく、熱せられた世論に押され、「被害者の感情」を考慮する求刑と判決を出す検察や裁判所の姿勢は明らかに司法の独立という原則に反するものだ。
いや、検察や裁判所だけではない。弁護士の世界でも同様の事態が起きている。実は、今回の瀬戸内寂聴のビデオメッセージが流されたシンポの翌日の日弁連による人権擁護大会では「死刑廃止」の採択がされたのだが、この採択をめぐっては反対意見が続出。寂聴問題も採択へのカウンターとしてクローズアップされた側面もある。
しかも、日弁連の「死刑廃止」をめぐって露わになったのは、犯罪被害者の支援弁護士たちによる反対意見の存在だけではない。多くの弁護士がやはり「被害者遺族の感情」を理由に、消極的な態度を示しているという。
本来、国家権力に対して人権を守る役割であるはずの弁護士までが、「犯罪被害者の感情を考えろ」という空気に抗しきれず、死刑廃止を主張できないでいるのだ。いや、それどころか、最近では凶悪殺人事件の弁護を引き受けると、弁護士に非難が浴びせられるため、こうした事件の弁護に尻込みする傾向まで出てきた。
おそらく、この状況下では、日本で死刑制度が廃止されるなんていうことはほぼ不可能だろう。それどころか、これからますます厳罰化が進んでいくはずだ。