つまり、2020年の五輪も近いうちに日中戦争が起きて、開催を返上。1940年の東京五輪と同じように、幻に終わるのではないか、というのだ。
これはあながち、妄想ともいいきれない。安倍首相は非公式の場では、「安保法制は中国が相手」「南シナ海で日本人が命をかける」と明言しているし、東シナ海のガス田開発、中国の領海侵犯などしきりに中国の脅威をアピールしている。
また、南シナ海では、今年6月、海上自衛隊がフィリピン海軍と合同軍事演習を行っているが、官邸は1年以内に、自衛隊が米軍やフィリピン軍とともに、中国が進める南シナ海での岩礁埋め立て工事現場付近に出動し、この工事を武力で止めるシナリオをもっているといわれているのだ。
そう考えると、2020年の東京五輪と1940年の東京五輪の奇妙な符合を、オカルティックな「歴史の反復」としてとらえるのは少しちがうのかもしれない。むしろこの2つの五輪は、もともと構造的なところで共通している部分がある。
前掲の『幻の東京オリンピック』は1940年の東京五輪について、こう書いている。
「一九四〇年東京オリンピックの問題点のひとつは、紀元二千六百年記念として開催したいとの意欲が先行したため、肝心の競技施設を事前にまったく整備しないままに立候補し、しゃにむに招致運動を進めたことである。」
「日本の軍国主義化が急進するにつれ、オリンピックに内包される国際的、平和的な理念と「皇紀二千六百年」の持つ国家主義的性格との矛盾が激化し、軍部だけでなく政府内部でも、東京オリンピックの意義を認める空気が急速に希薄になっていったのである。」
2020年の東京五輪もまた、石原慎太郎と安倍晋三という2人の国家主義者によって国家的威信の復活のために強引に進められたものだ。だとしたら、同じように矛盾が次々と噴出し、戦争リスクが高まるのは当然といえるだろう。
いったい、この先、2020年の東京オリンピックはどうなるのだろうか。いや、オリンピックはどうなってもいいが、少なくとも1940年と同じような戦争という悲劇だけは避けなければならない。
(森 悲朗)
最終更新:2015.09.06 08:43