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今度は七尾旅人が安保法案に警鐘ならし炎上! 「アメリカのパシリになったら日本に愛情持てない」と言いきったアクティビストの真意とは

 そのひとつが、東日本大震災以降の活動だ。地震発生後、早々に義援金募集プロジェクト「DIY HEARTS」を立ち上げ、1000万円以上集めたその義援金を自ら被災地に届けるツアーも行なっている。

 また、福島を定期的に訪問し、その時の経験から「圏内の歌」という楽曲も生まれた。この歌は、3.11以降多く生み出された反原発ソングのなかでも屈指の名曲として聴かれ続けている。

〈激しい雨屋根を濡らす 放射能が雨樋を伝って/庭を濡らす靴を濡らす あの子の野球ボールを濡らした〉
〈離れられない愛する町 生きてくことを決めたこの町/まるで何もなかったよに 微笑みをかわす桜の下〉
〈子供たちだけでもどこか遠くへ/逃がしたい/どこか遠くへ/逃がしたい〉
(「圏内の歌」歌詞より引用)

 彼の東北訪問の動き出しは早く、長渕剛らと並んで最初にアクションを起こしたミュージシャンのひとりとして知られているが、その時の様子について「MUSIC MAGAZINE」2012年9月号でこう語っている。

〈震災直後の4月アタマくらいですかね、(タブラ奏者の)ユザーンと一緒に車で福島へ行ったんです。その時はまだ、スタンダードな情報が全然出ていなくて、放射線量ひとつにしても。行くこと自体がどうなのかっていうのもイマイチよくわからなかったんですけど。でも自分たちの東北のお客さんはどんな表情をしているのか、それを見たかったんでしょうね、僕もユザーンも。それでいわきのソニックっていうライブハウスがあって、そこで演奏できることになって。まだ20キロ圏内が封鎖されていなくて、圏内からもお客さんが来てくれたりして。みんなノッてくれて帰って行くんですけど、帰りしなに出口のところで、泣いてたりするんですよ。それもライブで感動して泣いてるっていうより、言葉にできないような、複雑な泣き顔なんですよね〉

 七尾はその後も、定期的な福島通いを続けながら政治・社会的なイシューに関わっていく。その際に彼が大事にしていたのは、物事をスローガンのように単純化して言い表すのではなく、色々な人々の多様な意見に耳を傾けながら、“音楽”“芸術”にしか出来ないかたちで丁寧にメッセージを発信していくことだった。

〈政治とかジャーナリズムの言語だと、ロジカルであるための単純化を免れないし、微妙な立場の差異で即座に軋轢が生まれてくる。しかし、歌だと感情の綾やひだみたいな複雑なものを、複雑なまんま、とらえることができるんじゃないか。いろんなものがグシャグシャに一体化した微妙な感情を、音楽だったら再現できる〉
(「TV Bros.」東京ニュース通信社/12年8月18日号)

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