このとき展示拒否にかかわった沖縄県ならびに館長、キュレーターは、起こってもいない抗議を恐れたのは明白だ。しかし、抗議が“予想される”作品だからといって拒否することは、表現の自由の下では許される行為ではない。この問題を取り上げた『アート・検閲、そして天皇―「アトミックサンシャイン」in沖縄展が隠蔽したもの』(社会評論社)のなかで評論家の小倉利丸・富山大学教授が論及しているように、〈時の権力者や政治家、有名人の肖像をさまざまな手法で表現の題材にする自由は、言論表現の自由の必須条件〉〈権力者を批判する自由があってこそ言論表現の自由の実質が存在するといえる〉からだ。
そしていま、会田氏の一件で露呈したのは、政治的主張がなくても、たったひとりが政治性を感じて抗議しただけで撤去要請してしまう「表現の自由」という意識の弱体化だ。現に、この撤去要請騒動について、ネット上では「公共の場にふさわしい作品展示を」などという声も少なからず挙がっている。
だが、再び小倉氏の言葉を借りれば、〈公共の美術館であればこそ、憲法が義務づけている表現の自由と検閲禁止を明確に遵守すべき〉であって、〈多様な価値観の作品群に接する〉機会が公共で設けられることによってわたしたちは〈自由な討議〉を行うことができる。「公共にふさわしいもの」は、最初から誰かが一方的に決められるようなものではないし、問題があれば自由闊達な議論がきちんと行われなければいけないのだ。
あらためて言及するまでもないが、過去から現在にいたるまで、ときの権力の手によって芸術作品や作家たちは弾圧や検閲を受けてきた。とくに戦前・戦中は、ナチスドイツが権力の妨げとなる美術作品を「退廃芸術」と呼んで徹底的に糾弾したし、日本においては国家総動員法によって多くの作品・作家が弾圧を受けている。また逆に、国家権力は美術をプロパガンダに利用するため、従軍画家を戦地へ派遣しては戦争画を描かせた。このような歴史を繰り返さないために、「表現の自由」という権利は存在するはずだ。
どう見ても政治的主張なんてない作品に寄せられたたった一件の抗議に過敏になり、表現をあらためろと言う──。この過剰反応こそ、現在の日本を覆っている空気なのだろう。
そして、もし、と想像してみる。もし今回、問題となった作品に政治的主張が含まれたものだったら、もっと声の大きな者によって、表現の規制を強化しろなどという意見が吹き荒れていたのではないか、と。……子どもたちのはしゃぐ声が響く日曜の美術館で、そんな想像をして思わず血の気が引いた。
今回の作品撤去要請は、それくらい大きな問題を孕んでいる。
(田岡 尼)
最終更新:2015.07.28 09:38