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エヴァ貞本義行、くるり岸田繁まで…あいちトリエン“慰安婦像”攻撃で露呈した無自覚なヘイト、表現の自由の矮小化

 そもそも、なぜ憲法21条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」が保障されているのか。それは権力によって制限されずに、自由闊達な議論を行うことが、民主主義に求められる最低条件だからだ。つまり、政治権力を自由に批判できるところにこそ「表現の自由」の本質がある。

 戦争や暴力、あるいは権力に対し、それ自体をもってきて応じるのではなく、言論や芸術といった表現で対抗する個人のための保障でもある。言い換えれば、「表現の自由」は「弱者である個人」と「強者である権力」とのアンバランスな緊張関係を保持する防波堤なのである。

 その意味において、「少女像」を「政治的」と批判的に語る言論は、その言い方によって政治権力によって表現が統制される隙を与える。仮に「政治的」なものが芸術から排された社会があるとすれば、逆説的に、そこは権力が自由な表現を敵視しないディストピア社会であり、そこにおける芸術はすなわち「政治の言いなり」以外のなにものでもないのだ。

 繰り返すが、今回の「表現の不自由展・その後」は、ネトウヨの脅迫や極右政治家の圧力によって中止に追い込まれた。まさに、権力と暴力によって「表現の自由」がつぶされた。にもかかわらず、人々はこの状況に大なり小なり違和感を感じつつも、なし崩し的に受け入れそうになっている。それがどれだけ危機的なことか。この国は、本当に行くところまで行ってしまうのだろうか。

最終更新:2019.08.12 07:09

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