「陛下のご意向」ですら「従うつもりはない」というのは、小堀宮司の舌禍事件にも通じるが、一方で「靖国職員」はこうも述べている。
〈小堀宮司も、親拝を拒む陛下の首に縄をつけて当神社まで引っ張ってくるような考えは持っていません。陛下のご意向をないがしろにするような考えは毛頭ありません。
陛下の戦争跡地行幸を批判するかのような報道がなされたようですが、おそらく何かの間違いではないでしょうか。〉(同)
実際の音声が表沙汰になったものを「何かの間違い」と言い張るのもおかしいが、加えて驚いたのは、否定のためとはいえ、「陛下の首に縄をつけて当神社まで引っ張ってくる」という表現を使っていたことだ。もし、新聞や週刊誌が天皇に対してこんな表現を用いたら、右翼から直ちに「不敬だ」と糾弾され、最悪の場合テロの標的にすらなりかねないだろう。それを神社関係者が使うとは……。
いや、それはともかくとしてもだ。「靖国職員」を読んで驚くのは、小堀宮司舌禍事件に関する声明だけではない。
サイトでは歴史認識や靖国の位置付けについての見解が述べられているのだが、そこには、マスコミが外交問題として扱いがちな靖国をめぐる問題の“本質”が、グロテスクなまでにダダ漏れになっているのである。
たとえば「靖国神社は追悼施設ではない」と題して、こんな文章が書かれている。
〈私たちの靖国神社は、追悼施設ではありません。
戦没者の冥福を祈る場所ではありません。
靖国神社は、戦没者を神様として崇め、すがるための場所なのです。
こちらが救ってやるのではありません。参拝者は救っていただく立場なのです。〉
これは、右派政治家がこれまで靖国参拝を正当化するために強弁してきた「靖国神社は戦死した方々を追悼して平和を祈念する施設」なる言い分と真っ向から対立するものだ。
たとえば、安倍首相も自民党幹事長代理時代の2005年、小泉純一郎首相の靖国参拝を支持する「平和を願い真の国益を考え靖国神社参拝を支持する若手国会議員の会」の発起人となり、第二次政権以降も自らの靖国参拝について、「国のために戦い倒れた方々のために手を合わせ、御冥福をお祈りをする、尊崇の念を表するのはリーダーとして当然のこと」「戦没者を追悼する、そして不戦の誓いをする、そういう意味において参拝をした」(2014年3月12日参院予算委員会)などと説明してきた。