ところが、百田はこの動きに対して前述したように〈よーし、今から受験勉強に挑戦して、2020年にお茶の水女子大学に入学を目指すぞ!〉とツイートしたのだ。
百田のツイートは単なる“お寒い冗談”ではない。なぜならば、性自認を男性と公言している百田が「女子大を目指すぞ!」と宣言することは、明らかに「自分の性自認を偽って女子大に入り込む不逞な輩がいるかもしれない」「トランスジェンダーの人は性自認を偽っているのではないか」という偏見を助長するからだ。
しかも、百田は続けてこのようにツイートしている。
〈ふと思うんだが、女性同士でも愛し合うカップルがいる。ということは、体は男性だけど心は女性という人が、女性と愛し合うことがあっても不思議ではない。しかし、それって、外から見てると、ふつうに男と女のカップルに見えるよなあ。〉
あまりにひどいので念のため正しておくと、どの性別を恋愛・性愛対象とするか(性的指向)と性自認(自分の性をどう自覚しているか)はまったく別の話だ。トランスジェンダーの人もそうではない人も、異性愛者であるか同性愛者であるか、あるいはバイセクシャル、パンセクシャル、アセクシャルであるかといったように、性的指向は個人によって様々だ。また、自分の性的嗜好がわからずに苦しんでいる人たちも大勢いる。
戸籍上は男性だが心は女性で男性を愛するという人もいれば、戸籍上は男性だが心は女性で「女性として女性を愛する」という人もいるだろう。それは「男性が男性として女性を愛する」こととは違う。そもそも百田の言っている「外から見てると、ふつうに男と女のカップル」という意味がよくわからないが、街で男性っぽい人と女性っぽい人が2人でいたからといって、「ふつうに男と女のカップル」としか考えられないというのは、作家とは思えないあまりに貧困な想像力だ。
ようするに、百田は「ふつうに男と女のカップル」などと言って、旧来的な「男」「女」のジェンダー役割や「異性愛がふつう」という偏見をすべての人に強要・喧伝し、そこにはまらない多様な性のありようや繊細な機微など取るに足らないこととして切って捨てているのだ。これは性的マイノリティ排除、差別以外の何ものでもない。