たとえば、沖縄で米軍による少女暴行事件が起こった翌年の1996年には、誕生日会見の場で「沖縄の問題は、日米両国政府の間で十分に話し合われ、沖縄県民の幸せに配慮した解決の道が開かれていくことを願っております」と、日本政府でもなく米国政府でもなく、沖縄県民の側に立つと明言した。また、2003年の誕生日会見では、翌年1月に予定されていた沖縄訪問について「ここで58年前に非常に多くの血が流されたということを常に考えずにはいられません」と述べた上で、本土がアメリカの占領から独立したサンフランシスコ講和条約に触れながらこう続けている。
「沖縄が復帰したのは31年前になりますが、これも日本との平和条約が発効してから20年後のことです。その間、沖縄の人々は日本復帰ということを非常に願って様々な運動をしてきました。このような沖縄の人々を迎えるに当たって日本人全体で沖縄の歴史や文化を学び、沖縄の人々への理解を深めていかなければならないと思っていたわけです。私自身もそのような気持ちで沖縄への理解を深めようと努めてきました。私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」
「島津氏の血を受けている者として心の痛むこと」というのは、今上天皇の母である香淳皇后が薩摩・島津藩の子孫であることから、琉球侵攻で支配下に置いた歴史を鑑みてものだろう。天皇自ら沖縄・琉球に対する本土の“加害の歴史”を持ち出したうえで、「それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならない」と語る覚悟は、並大抵のものではない。
そうしたなか、2012年12月の総選挙で安倍自民党が大勝。第二次安倍政権が発足するのだが、直後の誕生日会見をいま振り返ると、天皇の発言は、その後の沖縄政策をけん制するかのような内容だった。天皇は同年の沖縄訪問についてこう述べている。
「沖縄は、いろいろな問題で苦労が多いことと察しています。その苦労があるだけに日本全体の人が、皆で沖縄の人々の苦労をしている面を考えていくということが大事ではないかと思っています。地上戦であれだけ大勢の人々が亡くなったことはほかの地域ではないわけです。そのことなども、段々時がたつと忘れられていくということが心配されます。やはり、これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、日本人全体で分かち合うということが大切ではないかと思っています」