その典型例が、15年の夏の甲子園で起きた騒動だろう。この大会では、関東第一高等学校(当時。現在は東北楽天ゴールデンイーグルス所属)のオコエ瑠偉選手の活躍が大きな注目を集めていた。
オコエ選手はナイジェリア人の父と日本人の母との間に生まれたハーフだが、そんな彼の甲子園における活躍を報じた8月12日付スポーツ報知の記事が偏見と差別を助長する表現を用いたとして問題視された。スポーツ報知はオコエ選手をアフリカの野生動物に喩えて、このように書いたのだ。
〈真夏の甲子園が、サバンナと化した。オコエは本能をむき出しにして、黒土を駆け回った〉
〈野性味を全開〉
〈味方まで獲物のように追いかけた〉
〈ヤクルト・小川シニアディレクターは「本能を思い切り出す野獣のようだ」。ロッテ・諸積スカウトは「ストライドが長い。ヒョウみたい」。スカウト陣からは野性的な賛辞が続出した〉
〈飢えたオコエが、浜風をワイルドに切り裂く〉
明らかにオコエ選手の活躍とアフリカ系の出自とを結びつける記事に、ネットでは「アフリカ出身の父を持つだけで動物扱いかよ」「レイシズムの見本市」「気が利いたこと言おうとして無自覚な差別意識がダダ漏れ」と批判が続出。報知新聞社は、こうした声を受けてウェブ版の該当記事を取り消している。
ガキ使の黒塗り擁護派が“差別の意図ではなくリスペクト”などと主張していたように、この記事を書いた記者も明確な悪意はなく褒めたつもりなのだろう。しかし、「黒人の血をひく人は運動能力が高い。ワイルドである」といったように、人を定型の鋳型にあてはめることこそが差別であるということを知っておかなければ、このような事態は繰り返されるのだ。
また、さらに問題なのは、この記事が世に出るまでの間、編集長をはじめ複数の人の目に触れているはずなのにも関わらず、このような表現は差別的なものとして受け止められるという指摘が誰からも出されなかったというところである。
以上述べてきたことからわかる通り、日本において「黒人差別」は確実に存在する。アフリカ系に対する差別だけでなく、在日差別も熾烈を極めており、人種差別・民族差別は対岸の火事などではまったくない。むしろ「日本に差別はない」という認識そのものが、差別問題に対するに問題意識の低さを表している。
だからこそ、差別をなくすためにも、メディアは差別問題をスルーせず報道することがとても重要なのだが、肝心のメディアの差別に関する意識やリテラシーが現在のような惨憺たる状況ではお話にならない。
「日本には黒人差別はないから問題ない」などといった意見が流布される状況になった責任の一端は、間違いなくメディアの意識の低さにある。
今回の『笑ってはいけない』騒動は、ある意味では学びの機会にしなくてはいけない。日本のメディアは、差別をないものとして見て見ぬふりをするのでなく、思考停止するのでもなく、正面から差別問題と向き合うべきだろう。
(編集部)
最終更新:2018.01.31 03:46