こういった、政府による無法なやり口に対しては啄木や、先に出た国際法学に詳しい記者のように疑問の声をあげる人もいる一方、実は、こんなも声も出ていた。啄木らの議論に混ざってきた別部署の新聞記者はこんなことを語っている。その語り口は、まるで現在の安倍応援団やネトウヨの主張のようである。
〈彼は直ぐまた口を尖らして吒るやうな言葉を続けた。『ああいふ奴等は早速 殺して了はなくちや可かん。全部やらなくちや可かん。さうしなくちや見せしめにならん。一体日本の国体を考へて見ると、彼奴等を人並に裁判するといふのが既に恩典だ………諸君は第一此処が何処だと思ふ。此処は日本国だ。諸君は日本国に居つて、日本人だといふことを忘れとる。外国の手前手前といふが、外国の手前が何だ。外国の手前ばかり考へて初めから腰を拔かしていたら何が出来る。僕が若し当局者だつたら、彼等二十六名を無裁判で死刑にしてやる、さうして彼等の近親六族に対して十年間も公民権を停止してやる。のう、△△ 君、彼等は無政府主義だから 無裁判でやつつけるのが一番可いぢやないか。』 名指された予は何とも返事のしようがなかつた。ただ苦笑した。〉(「A LETTER FROM PRISON」)
大逆事件の後、結果的にこの国はどうなったのか? そこで起きたのは、一般庶民による「自主規制」の横行である。「所謂今度の事」というエッセイは、ビヤホールに入った啄木の近くに座っていた三人組の男が「今度の事」と言葉を濁しながら大逆事件について語っている場面に出くわすところから始まる。その状況を見て、啄木はこのように綴っている。
〈千九百余年前の猶太人が耶蘇基督の名を白地に言ふを避けて唯「ナザレ人」と言つた様に、恰度それと同じ様に、彼の三人の紳士をして、無政府主義という言葉を口にするを躊躇して唯「今度の事」と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。〉
大っぴらに権力者を批判したら、ひょっとすると次の標的は自分になるかもしれない──そんな恐怖が頭をもたげると、酒場での会話ですらこんなことになってしまうのだ。
もしも、「共謀罪」が成立し、逮捕者が出たら、こういった「自主規制」の歴史は必ず繰り返されるだろう。その結果、なにが起きるかはもはや言うまでもない。だから、「共謀罪」には反対の声をあげ続けていく必要がある。法律は一度できてしまったら後に戻ることはほぼ不可能だからだ。
(編集部)
最終更新:2017.12.05 01:15