葉山が福島に学童疎開していたことは先に書いた通りだが、実は最初は福島ではなく、父親の故郷である広島に疎開することに決まりかけていたという。しかし、軍港である呉があることから敵の標的になることを父が心配し、土壇場で疎開先が福島に変更になる。もしもこのとき父の勘が働かなかったら葉山は原爆により命を落としていた可能性もあったのだ。
そんな縁もあり、葉山は原爆によりもたらされた悲劇を、歌や言葉を通して伝えることに尽力する。白血病により7歳で亡くなった実在の原爆二世の少年をテーマにした歌「ぼく生きたかった」を歌ったりもしているのだが、そのことについて、しんぶん赤旗2009年12月27日・2010年1月3日合併号ではこのように語っている。
「私はもう、ひどいことだと。原爆投下は人間のやることじゃない。詩曲の「ぼく生きたかった」を歌ったのは、ちょうど息子が生まれたころだったんですね。ですから、子どものためにも、こんなことはないようにしてほしいという気持ちがありました」
彼女の残した仕事のなかで最もメジャーなものは前述した「ドレミのうた」の訳詞だと思われるが、実はこの歌にも戦争の記憶と影響が色濃く反映されているという。「中央公論」(中央公論新社)14年9月号に掲載された塩澤実信との対談で葉山は制作の裏話をこのように語っていた。
「「ドはドーナツのド」。戦争中に食べたかったドーナツをアメリカの兵隊さんからもらったとき、「わー、ドーナツだ」って言って母と二人で神棚にあげてからいただいた思い出が元になっています」
「ドはドーナツのド」の原詞は〈Doe, a deer, a female deer(ドは鹿、メスの鹿)〉だが、意訳が必須のこの部分を訳す際に「ドーナツ」が選ばれたのには、こんな理由があったのだ。