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都知事選敗北の責任を入院中の谷垣に押し付け! 石原伸晃の絵に描いたような“無責任アホボン”言行録

 そしてきわめつきは、12年9月に出演した『報道ステーション』(テレビ朝日)での発言だろう。伸晃は番組内で社会保障費削減について問われると、生活保護をネット上の蔑称である「ナマポ」という言葉で表現。そのうえ、社会保障費の話の最中に“私なら延命治療などせずに尊厳死を選択する”という趣旨の発言を行った。

 弱者の声を受け止めることもなく、そればかりか命の尊厳を軽んじ、差別を煽るような暴言を吐きつづけてきた伸晃。ちなみに、伸晃の口癖は「オレ、そんなこと知らない」「オレ、聞いてない」なのだという。慎太郎の威光を笠に着て、都合が悪くなれば「知らない」「聞いてない」と言い逃れる──。まさに“アホボン”の典型だ。

 実際、社会人時代にはこんなことがあったという。伸晃は1981年に慶應大を卒業して日本テレビに入社し報道局の記者となったが、運輸省担当時代の85年に、単独機としては史上最悪の犠牲者数を出した日航ジャンボ機墜落事故が発生する。が、このとき伸晃は会社に連絡先を知らせないままイタリア旅行に出ており、ようやく連絡が取れたときには、「あとはよろしくお願いします」と呑気に言い放って旅行を続行させたのだ。この“事件”は「今なお、日テレ報道局史上に残る致命的失態」(「週刊新潮」12年9月27日号)と言われているというが、ふつうは入社4年目の記者がこんな態度をとれるはずがなく、“大物政治家の息子”ならではのエピソードだ。

 しかも、伸晃は2007年に山崎拓の派閥・山崎派に入ったが、この際も、父・慎太郎が日テレ会長の氏家齊一郎を立会人にして山崎と会い、「伸晃を首相にしてやってくれ」と求めたという(「サンデー毎日」12年9月23日号)。また、12年の東京都知事選で出馬を渋った慎太郎は、出馬を説得する森喜朗に対して「その代わり、伸晃のことを頼む」と交換条件を出したことを、森本人が証言している(森喜朗・田原総一朗『日本政治のウラのウラ 証言・政界50年』講談社)。このことがあって、森は同年の自民党総裁選挙で同じ派閥の町村信孝や安倍晋三ではなく、伸晃支持に回ったという。

 慎太郎はスパルタ教育を提唱し、著書のなかでも「暴力の尊厳を教えよ」などと述べてきたが、自分の息子に対してはこうやって甘やかしてきたのだ。逆に伸晃も、つねに慎太郎に守られながら政治家としての立ち位置を固め、父ゆずりの暴言を吐き、責任問題に発展しても逃げつづけてきたのである。

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