事実、本サイトで追及してきたように、昨年、“原子力タブー”は完全に蘇ったと言うべき状況となった。安倍政権の原発再稼働政策の興隆と同時に、新聞や雑誌には“原子力プロパガンダ広告”が復活。ご存知のとおり、原発に批判的な論調を継続していたテレビ朝日『報道ステーション』は古舘伊知郎キャスターの降板が決まった。
さらに、昨年に強行可決された安保法制の成立過程を見ても、原発報道と「同じことが言える」という。
「集団的自衛権のような抽象的な言い方を使うから一般人にはよくわからないのですが、もっと根本的な議論が本当は必要だったはずです。日本は平和主義の国であり続けたいのか、外国の軍事基地は必要か、アメリカと対等な同盟国になりたいのか、日本はどういう方向に行くべきか――」
これらは日本国憲法及び日米安保という、戦後日本の根幹的議題を指しているように思えるが、続けて日本メディアの現状をこのように評すのだ。
「こういう大事な論点に一生懸命触れないようにしている。原子力ムラよりさらに大きな既得権益があるからでしょう。いまの官僚体制、自民党支配の全体にかかわっている問題です。だから、議論を狭い範囲に制限しようとする動きがあり、さきほど申し上げたタブーもそういう動きの一環です。メディアも、残念ながら広い意味で官僚制度の一つの部分にしか見えません」
また、マックニール氏も、安保法制に関する報道について「マスメディアの失敗でもある」「大手紙の記者はもっと追及すべきだったのに、政治家からの情報を垂れ流すばかりで、それでは一般市民にはわからない」と苦言を呈している。
日本には記者クラブという珍妙なシステムがあり、海外の目からみれば“官僚制度の一部”と映ってもしかたがない。ようは、新聞やテレビ局は、政府に飼い慣らされることで情報をもらっている。
この構造が、政権批判をして目をつけられてはたまらないといった萎縮を生み、ファクラー氏がいうように、逆に「大事な論点に一生懸命触れないように」する気質が温存され続けるのだ。政治権力による圧力は「反日サヨクの妄想」などではなく、この構造を意識できないほど日本のメディアで内在化しているということだろう。
よくいわれる日本のガラパゴス化は「表現の自由」という民主主義の根幹の部分にまで及んでいるのだ。
(小杉みすず)
最終更新:2016.01.14 08:23