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体罰を認めた馳浩文科相が会見でついた大ウソ…義家副大臣との対談に「自戒、反省」は一切なく逆に体罰を擁護!

 つまるところ、こういうことではないのか。保護者や学校から馳氏の体罰指導に対し批判の声があったが、しかし、当の馳氏は「短期間でチームをまとめ、強くするには基礎体力をつける以外にない」などと保護者に言って、その後もその“教育方針”を曲げなかった──。

 真相はその生徒らが名乗り出ないかぎり闇の中だが、少なくとも、馳文科相が会見で言うように「迷惑をかけたことを反省をしているとの意味で、発言した」という調子はつゆほども確認できない。これをどうやったら「自戒・反省・謝罪を込めて発言した」というふうに言えるのか、大いに疑問である。

 いや、そもそも、この対談のトーンは一貫して“体罰は教育として肯定される”という流れなのだ。実際、前述の馳氏の発言の後に、義家氏がこんなことを言い出している。

「この機会に申し上げますが、私は正直、体罰という言葉の定義にいつも違和感を抱いてしまうのです。罰を加えるうえで、生徒への悪意、見下した思いに基づくものだったり、生徒を自分の感情のはけ口にするような力の行使は、それは教育ではない。調教か、それですらないと思うのです。許されないことはいうまでもありません。ただ、では教師が力を使えば、全て教育にはなりえないか、教育として否定されてしまうのかといえば、それも違う。敢えて言えば身体を通して教える場面というのはあり得ると思うのです」

 もはや、コメントするまでもない。義家氏は明らかに、“体罰は教育として認められる”という自身の考えを明言しているのだ。体罰が“教育になりえる”かどうかは、教師側が決めることではない。義家氏がどういうつもりで体罰を加えたとて、暴力は暴力である。前述の生徒監禁事件によって「最後は加害生徒が泣いて詫びながら二度といじめないことを誓った」のは、本当に教育の成果だと思っているのか。ただ、犯罪的監禁に生徒が屈しただけではないのか。だとしたら、それは教育ではない。

 では、対する馳氏はどうだったのか。もし「自戒・反省・謝罪を込めて」というのならば、どのような理由があっても体罰を認めてはならないはず。しかし、この義家氏の体罰容認発言にたいする馳氏の答えはこうだった。

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