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「ヘイト」を追及し続けるジャーナリスト・安田浩一インタビュー(前)

両論併記に逃げるメディアの傍観者たちは「ヘイト」の意味も危険性もわかっていない!

■ネトウヨ取材への反発に答える

──相対主義的視点を招く事例としてもう一点挙げたいのが、メディアの両論併記問題です。私自身もヘイトスピーチに反対する立場で現場取材を続けています。ただ、別の媒体ですが反対側の立場に立って記事を書いたときに「なんでカウンターの言い分ばかりを取り上げるのか」「在特会の言い分も取り上げないと」とデスクから言われてしまったんですね。

安田 それは両論併記のもっとも悪い見本じゃないかな。両論併記しておけば訴えられることもないだろう、というメディアの免罪符になっているんだよ。両論併記も原則的には大事なことだと思うんだけど、この差別の問題で今必要なのは差別者の言い分を聞いて、その理解を社会に求めることではない。その醜悪さを、あるいは彼らのトンチンカンな思想を、きちんと批判するがゆえに言葉を引っ張ってくる。そのために必要なんであって、差別者とその対象との間に圧倒的な不平等関係があるなかで、なんで両論併記なのかと思うわけですよ。
 90年代までには週刊誌的な報道を指して「ゲリラジャーナリズム」と呼ぶ人々がいました。新聞が正規軍であれば、週刊誌はゲリラである。ゲリラは大新聞が見落としてしまったこと、書けないことを、あえて探し出して書くものなのだと『噂の真相』を中心とした文脈のなかで言われ続けてきた。僕自身「大企業や権力と個人がケンカをした場合には『公正さ』なんて考える必要はない。週刊誌の役割は圧倒的な力の前で脅えている人、権力の犠牲になっている人の声を拾い上げること」だとずっと先輩から言われていて、その通りだと思っていた。僕はその教えを真面目に守ろうとはしてきた。だからイデオロギーの問題ではなく社会的な力関係の中で『どっちを取り上げるべきか』を常に考えてきた。そのときに報道の公平さというものは、自分に課していませんでした。
 この問題もそうですよね。マジョリティの方が圧倒的に媒体も発信手段も持っているのに、なぜ差別されている側とする側を並列に扱って両論併記という原則を進めようするのか、僕はさっぱりわからない。
 これはカウンターを擁護するとかいうレベルの問題ではない。イデオロギーとは別の部分で、差別や偏見をしないというのはメディアの仕事の中でもマストに入ってくる部分だと思っています。だからせめて差別や偏見に手を貸すような報道はやめようよと。
 まあ、メディア全体を見れば、こうした立場自体が少数派なのかもしれないなと思わざるを得ない部分もあるんですけどね。

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