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放射脳といわれる人の心の中は? 芥川賞作家が原発事故の自主避難体験を小説に

 修人の必死の説得に、「行くよ!」「子供を守らないひどい母親だと思われたくないから!」と泣きながら絶叫する香奈。しかし、そのタイミングで都庁に勤める香奈の父親から電話があり、通話を終えた香奈は「原発の事は国の発表してる通りで、東京から逃げる必要はないって」と修人に伝える。ヒステリックな香奈の態度に辟易としていた修人は、一旦は〈もう止めよう。無駄に香奈を不安がらせるのは止めよう。大丈夫。被曝なんかしない〉と言い聞かせるが、その後も放射能への不安は増幅。他方、修人と比例するように、香奈はどんどん楽観的になっていく。

〈(香奈は)全く原発の事を気にしなくなっていた。立て続けに原子炉が爆発しても、大変だね避難区域に設定された地域の人は、と全く他人事な態度でニュースを流し見ていた〉

 もちろん、東京の浄水場の水から放射性ヨウ素が検出されても、ほうれん草や牛乳から放射性物質が検出されても、香奈の態度は変わらない。食べるものから散歩まですべてに神経質になっていく修人に対し、香奈は独自に集めた安全であると主張する情報を示すが、それも修人には〈放射能の影響で死んだと断定する根拠が明確になっていない以上、過剰に気にしてしまうのは当然の事じゃないだろうか〉と考える。──このふたりのやりとりは、現在、社会のなかで繰り広げられている議論と同じだ。危険だと言う者と、安全だと言う者。どれだけ言葉を尽くしても、両者のあいだは埋まるどころか隔絶して、分裂状態だ。いや、安全を訴える人だけではない。“そもそも自分とは関係ない”と無関心である人たちもまた、事故後の影響を危険視する人々を孤立に追いやっているのが現状だ。

〈香奈には否定され続け、もやもやとした放射能への恐怖を人に語られずにいる内に、僕は次第に自分の前に立ちはだかる無力感がもう自分の力で超える事の出来ない領域にまで肥大しているのを感じ始めた。赤ん坊はこんな気持ちなんだろうか。今目の前にある紙くずさえ自分の力では払いのける事が出来ないような、そんな無力感だった〉

 結局、修人と香奈が選んだのは、離婚という選択肢だった。そして修人は、京都に高級マンションを購入し、香奈と娘はそこに住むことを離婚の条件にした。だが、この話を聞いていた友人の千鶴は、修人にこう語る。

「何か、自分勝手だよね。危ないから逃げろって言って、能動的なように見えて、修人くんは全然能動的じゃない。自分は何にもしてない。ただパソコンの前に座って調べものして指示を出すだけ。誰もそんな人の言う事聞こうなんて思わないよ」

 娘を放射能の危険から逃がしてやりたい。その一心だったとしても、それならなぜ、妻と娘と一緒に西へ向かわなかったのか。仕事を理由に自分は東京に残ると最初から決めていた修人の自己欺瞞を、千鶴は突く。たぶん、事故後、この修人と同じ迷いのなかにいた人は多いはずだ。結果として家族で避難した人、妻と子どもだけ逃がした人、修人と香奈のように避難を諦めた人……。ただ、あのときもいまも社会に充満しているのは、千鶴の言う「何の被害も被っていない東京在住者が逃げる必要があったのかって、思わなくはないってこと」という言葉ではないだろうか。実際、東京にも放射能の被害がおよんだにもかかわらず、だ。

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