そしてなにより、空襲当時の日本では防空法という法律によって市民の都市からの移動が禁止され、空襲時には消火の義務が課せられていた。そのため、3月10日は避難に出遅れた市民の多くが犠牲になり、防空壕にとどまった人はほとんどが蒸し焼きになるほどの惨状だったのだ。
〈都民には、絶対に逃げることのできない防火義務が、法律として、頭の中にたたきこまれていたのである〉
しかし、この下町大空襲があった一週間後の3月18日、昭和天皇が被災地を巡幸。「これで東京も焦土になったね」という一言を発した。
これがきっかけになって、警視庁が防空方針を変更。「火に地下室は禁物」「避難の時を誤るな」「なるべく風上に逃げろ」といった「まず逃げる」の方針が徹底され、その後の空襲での犠牲者の大幅減につながったのである。
これは逆に言えば、当局の非現実的な防空体制によって犠牲者が増大したということである。そういう意味では、まさに日本の戦前の統制社会がもたらした惨事であり、空襲の犠牲者を悼んで悲劇を二度と繰り返さないという観点からも、ジャーナリズムが詳細に検証すべき問題ではないだろうか。
しかし、大手メディアの東京大空襲の特集記事や番組の中には、こういった事実に触れたものはほとんどなかった。わずかに朝日新聞が社説で当時の市民の消火活動の義務について触れていたくらいである。
産経新聞は社説で、〈これほど非人道的な無差別爆撃が本当に必要だったのかについて疑問は大きく、引き続き日米で検証も必要だ。「戦争終結を早めるため」というだけで正当化できるものではないだろう。戦争をめぐって勝者の視点から語られがちな歴史を多面的に見ることが欠かせない〉と、あくまでも被害者としての観点を強調している。
たしかに、行われた空襲は民間人を巻き込んだ無差別爆撃であり、米軍の非人道的な作戦は追及されるべきものだろう。
だが、それと同時に、自国内で何が起きていたかを徹底的に検証することも、国内のメディアとしては重要な仕事なのではないだろうか。たとえ、それが不都合な真実であったとしても、である。
ちなみに、この空襲の作戦立案者であり司令官でもあったカーチス・ルメイ将軍は「戦後、日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由で、昭和39年12月に日本政府から勲一等旭日大綬章を授与された。こういった不可解な事実も検証して報じてもらいたいものである。
(市井伊織)
最終更新:2018.10.18 05:12