たとえば、著者のひとりである李宇衍氏は、日本で重労働を強いられた朝鮮人徴用工たちの「強制連行」や「強制労働」を〈明白な歴史の歪曲〉〈誇張を超えて歪曲、率直に言って捏造〉などと主張する。
いわく、戦時の朝鮮人徴用工には前期から「募集」「官斡旋」「徴用」に分かれていたが、前の2つは朝鮮人たちの日本で働きたいという「自発的な選択」に任されたものであり、国民徴用令に基づく「徴用」も〈当時の朝鮮の青年たちにとって日本は、一つの「ロマン」でした〉などと言って〈朝鮮人労務動員を全体的に見ると、基本的には自発的であり、強制的ではありませんでした。強制連行だったとは言えません〉と述べる。
いや、ちょっと待ってほしい。たしかに、戦前の労務動員計画と国民動員計画に基づく朝鮮半島からの動員は1939年からの「募集」と1942年からの「官斡旋」、そして、強制性に議論の余地がない徴用令に基づく1944年からの「徴用」に分類されるが、そのいずれも、日本政府の閣議決定を経て日本の行政機関が関与したものであり、史料からそれら動員の多くに暴力や強制性がともなっていたこともはっきりとしている。
つまり、朝鮮人たちが「ロマン」を求めて自由に日本へ出稼ぎに来た、など印象づけるのは明らかにフェイクだ。朝鮮人の労務動員は、大日本帝国政府の方針に従い、明確に当局が管理した“国策”に他ならなかった。
たとえば「募集」にしても、「民間企業が自由に朝鮮人を集めて日本に連れてきた」というようなものではなく、各企業から申請された「移住朝鮮人」の数を厚生省が査定し、内地からの指示で朝鮮総督府が自治体に割りふり、その指定を経て、現地の日本人警察官らと一体となって行われていた。
「官斡旋」の形式においても、その強制性を当時、朝鮮の労務動員を担う部局の職員自身が語っている(外村大『朝鮮人強制連行』岩波書店)。1943年11月に東洋経済新報社の主催で朝鮮総督府の官僚や企業幹部らが出席した座談会で、朝鮮総督府厚生局労務課の職員は、労務者の取りまとめが「非常に窮屈」であるから「仕方なく半強制的にやってゐます」として、こう証言を続けているのだ。
「その為輸送途中に逃げたり、折角山〔鉱山〕に伴れていっても逃走したり、或ひは紛議を起すなどと、いふ事例が非常に多くなって困ります。しかし、それかと云って徴用も今すぐには出来ない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなほ強化してゆかなければなるまいと思ってゐます」
こうした状況について朝鮮総督府上層部も把握していた。1944年4月の訓示のなかにも〈下部行政機関も又概して強制供出を敢てし〉との文言があることから、強制的な動員が行われていたことを当局が認識していたのは確実なのである。
たしかに、元徴用工らの証言には「自ら進んで日本行きを志願した」というような話もないわけでないが、それはごく一部であり、全体に敷衍して「強制性がなかった」ことの根拠にするのは悪質なフレームアップと言わざるを得ない。
強制連行の研究で知られる東京大学の外村大教授は、「特に90年代半ばからですね、史料の発掘が進み、いろんな話が出てきました。朝鮮人の待遇が日本人よりよかったとか、自ら望んで来た人がいたとか。いずれも事実の断片ではあるんですよ。じゃあ暴力的な連行や虐待は例外的だったかというと、それは違う」「事実というものは無限にあるものです。都合のいい事実だけをつなぎあわせれば別の歴史も生まれる。でも、それは『こうあってほしい』というゆがんだ願望や妄想に近い」と断じている(朝日新聞2015年4月17日インタビュー)。