田端氏は、使用者側に殺意がないというが、長時間労働をさせれば健康に異常をきたし場合によっては死にも至ることは、様々な調査が指摘しているし、何よりこれまで起きた数々の過労死事件が証明しているではないか。死に至る危険性を知りながら長時間労働をさせることは、単なる過失などと矮小化できるものではない。そもそも過重労働の危険性を認識していないとしたら、経営者失格だ。
仮に直接的な死因が自殺だったとしても、まともに睡眠すらとれない過酷な長時間労働のなかで、精神的に追い詰められ、正常な判断力を奪われた結果、自死に追い込まれているのだ。体を壊されるのが先か、心を壊されるのが先だったかの差に過ぎない。実際、1991年に当時24歳の男性電通社員が過労自殺した事件で最高裁は電通側の責任を全面的に認めており、その後の過労自殺訴訟、労災認定に大きな影響を与えている。
しかも「36協定もない一方的な残業強制が違法」ならば、「組合や従業員代表の責任もゼロではない」って。違法であるにもかかわらず残業を強いている使用者の責任をまず問うべきなのに、それよりも止めなかった組合が悪いって、どうしてこの人はそこまでして経営者を免責したいのだろうか。
さらに田端氏は、自分の子どもが自殺したらどうなのか?と訊かれ、こんなふうに答えた。
〈自分の子どもが、イジメや過労死で自殺したら?ですか。。。自分の教育がもしかしたら悪かったけど、一義的には、子供とはいえ、他人の人生で、親が100%コントロールできるわけもないから、しょうがないなー、と思うだけです。そういうときのために3人も子供作ったのよ。リスク分散。〉
“自分の子どもであっても新自由主義を貫くオレ”を気取っているだけのこんなセリフにまともに付き合うのもバカバカしいが、しかし、子ども相手に「リスク分散」などという言葉を平気で使えてしまうというのは、やはり田端氏がすべての人間を取り替え可能なコマ、コストくらいにしか考えていないからだろう。
「鎖でつながれているわけじゃない」「屋上から突き落としたわけではない」という発言も同じだ。おそらく本人は、新自由主義の英雄だか伝道師だかのつもりで、わざと挑発的なことを言っているつもりなのだろうが、その挑発の言葉の中に、グロテスクな本質が露わになっている。おそらく、田端氏はきっと心の底で、経営者は刑法を犯しさえしななければ、社員に対して何をやってもいいと思っているのだろう。