もちろん、最初から言っているように、普通に教養のある人なら、こんな言説は一読するだけでデマと分かるわけで、本気で取り合う必要はないのかもしれない。
しかし、竹内氏が問題なのは、こうしたトンデモ説がただのトンデモで済まず、危険な政治的主張や差別肯定思想に利用されていることだ。
たとえば、竹内氏はそのバカげたトンデモを、無茶苦茶なフェミニズム・バッシングにも転用している。「別冊正論」版の最後に、竹内氏は〈女性で日本型リベラルとはどんな存在であるか〉に言及し、〈パートナーが日本型リベラルであり、その影響を受けている〉か〈本人が元々フェミニスト〉としてこう述べている。
〈人間も含めた動物界は、メスがオスを選ぶのが原則である。この点からしてすでにメスに主導権があるのは明らかだ。
もっとも動物界を見渡さなくても、少しばかり社会経験をつんだ女なら、社会を動かしているのは女だと、たちまち看破できるはずである。
要はフェミニストとは女は差別されているという先入観を持ち、現実を見ず、見たくない人々。この点で思想や理想を事実の前に置く、日本型リベラルとよく似ている。〉
もはや科学の濫用以前の問題だ。そもそも、生物学的差異だけでなく文化的・社会的な意味が付与された人間の性の問題にオス・メスの動物的特性をそのまま持ち込むことがナンセンスなのはもちろんだが、仮に、竹内氏の言うようにメスに主導権があるとしたら、なおさら、社会制度もメスの主導権が反映されるべきでメスが抑圧されるのはおかしい、となるのが普通だろう。この人、自分の論理が破綻していることに気づかないのか。
ちなみに、竹内氏は「動物行動学研究家」を名乗っているが、大学院修了後も学術論文を学会に発表するような「学者」ではない。だが、80年代から一般書のなかで、進化論(自然淘汰)や動物行動学を転用したトンデモな言説をばらまき続けてきた。
たとえば、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』の説を曲解し、社会福祉は貧乏人の子どもの遺伝子を増やすだけだという意味合いで〈福祉を子どもに適用するのを控えるという法案も提出してもらえれば明るい未来が約束される〉(『そんなバカな!』)などと主張。また、特権階級を〈庶民が知らず知らずに作り出した最高で最前の防衛システム〉(『男と女の進化論』)と賞賛する。
『賭博と国家と男と女』(文藝春秋)ではより過激になり、〈君主制、階級制は淘汰の産物。遺伝子の利己性が追求された結果がこれなのだ〉と主張し、〈君主制というものを、我々はもっと評価してもいいような気がする。民主主義ではなく、君主制である〉〈民主主義の次に来るべきものは、神々しさを湛えた君主の復活ではなかろうか〉などと書いた。
じゃあなんで君主制は歴史的に「淘汰」されていったの? そうツッコんだのは筆者だけではないだろう。