しかし、いざ自分の夫に健康上の不安が見え、介護が必要となると、「いまなら書けない」と言い出す。作家なのにその程度の想像力ももちあわせていなかったのか、と驚くしかないだろう。
だが、今回の告白で過去の作品を「書けない」と振り返る一方で、夫の介護をスタートさせていた今年1月にも、曽野はやはり「何が何でも生きようとする利己的な年寄りが増えた」などと高齢者が生きるための正当な権利を主張すること自体を猛批判している(産経新聞1月24日付)。
以前、本サイトでは、曽野が日本のハロウィーンを“タダで子どもたちにお菓子をもらわせようとする卑しい魂胆の見える親たち”などと批判しながら、自分の息子がマンガのただ読みをしたことを「相当なもの」と賞賛していたことを紹介した。介護の問題といい、他人のことは利己的だと攻撃するが、じつのところ利己的なのは曽野自身ではないか。
もちろん、御年85歳である曽野自身も後期高齢者であり、彼女が90歳の夫の介護を行うのは老老介護だ。そのような状況では、保険を利用して治療を受けながら、公的な介護支援サービスを利用し、さまざまな人の手を借りながら要介護者と介護者が孤立しない状態をつくることが望まれる。いくら曽野がそうした社会保障のあり方を批判し、自己責任でどうにかしろとがなり立ててきたといっても、それを受ける権利が曽野にはあるし、適切な保護を受けてほしいと思う。
しかし、ならば自分の夫を愛おしく思い自宅で介護したいと願い、サービスを受けているように、ほかの誰かも同じような思いから社会保障を受けているのだという想像力をもつべきではないか。今後、「何が何でも生きようとする利己的な年寄りが増えた」などと口にするようであれば、それは自身の夫にはね返ってくるということを自覚するべきだろう。
(水井多賀子)
最終更新:2017.11.24 07:08